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2011年2月18日 (金)

駅前の銅像がいざなう歴史旅

 駅の改札をくぐると銅像が迎えてくれる場所は多いですよね。芸術的なもの、ご当地名物、ゆかりのある人物等々・・・有名どころ渋谷駅の忠犬ハチ公(ハチの出生の地である秋田県大館駅にもあるそうですよ。)や甲府駅の武田信玄(塩山駅も信玄公)から、最近は銀河鉄道999やゲゲゲの鬼太郎などアニメキャラクターが話題になっていますね。私は歴史上の人物や名場面の駅前銅像が好きなんですが、特にJR北陸本線はお気に入りが多いです。福井駅の柴田勝家、小松駅は勧進帳の「安宅関」、長浜駅は秀吉に茶を進上する石田三成、津幡と石動駅は源平倶利伽羅峠の戦いの「火牛の計」・・・

P1000069 津幡駅構内の火牛像

こういう火牛もいるんだね~http://kanazawa.keizai.biz/headline/1137/(金沢経済新聞)

 地元小田原駅には東西両口に銅像があります。東口の小便小僧は繁華街のある東口の利用頻度が多かったので、幼い頃からなじみ深かったのですが、西口にある北条早雲の銅像は駅裏となる西口をほとんど利用することがなかったので、存在を知ったのは最近になってからでした。

P1000305 昨日も登場した早雲公

 さて、その早雲公は勇ましく馬上で采配をふるう姿ですが、その脇に角に松明をつけた牛が3頭。ここにも「火牛」がデザインされております。しかし、先述の倶利伽羅峠の「火牛の計」とは少しニュアンスが異なります。倶利伽羅峠の戦いは源平の戦いのひとつで、信州から北陸道に進出した木曽(源)義仲が、京都から攻めてきた平家軍の陣中に荒れ狂う火牛を突入させて打ち破った戦いです。火牛そのものを兵器とした訳ですが、北条早雲の「火牛」は、彼が小田原城を関東管領上杉氏の家臣であった大森氏から奪い取ったときのエピソードに登場するものです。

 北条早雲は戦国時代の幕開けを象徴する人物として、あるいは下克上を象徴する人物として有名ですが、出生から前半生については不透明な点が多い人物です。浪人の身分から大名に成り上がったように思われがちですが、本名が伊勢新九郎長氏ということから、室町幕府執事伊勢氏の身内人で、姉(妹とも)北川殿が駿河守護今川義忠に嫁いだので、その縁で駿河(静岡県)に下向し、義忠が不慮の死を遂げた後は今川家の軍師として幼君氏親を補佐して活躍しました。駿東郡(静岡県東部)から伊豆を平定して、相模への進出を狙いますが、関東には関東管領上杉氏(山内、扇谷家)が勢力を誇り、相模には扇谷上杉氏家臣の太田道灌、大森氏頼、三浦時高などの強豪がいて手が出ません。

 早雲は悶々とした日々を送ったことでしょう。こんな夢を見ています。~1匹のねずみが現れて、2本の杉の大木に取り付き、かじり倒してしまいました。すると、そのねずみは虎に変化したのです。~早雲は子年だったので、ねずみに自分を重ね、2本の大杉は関東の大勢力扇谷、山内の両上杉家を想定し、いつかは上杉家を倒して関東を奪い取るという大望を抱いていたんですね。

 辛抱強く待っていると、チャンスが到来!1486年に彼のライバルともいえる太田道灌が伊勢原市糟屋の主人上杉定正の館に呼び出され殺害されました。この事件は太田道灌の天才的な能力を恐れた主人が行った愚行とされていますが、早雲がライバルである道灌を消すために謀反の噂を流したという説もあります。更に1494年は早雲にとって運命的な年となりました。扇谷上杉定正が戦の最中に落馬して死去。足柄岩原城に隠居しながら小田原城ににらみを効かせていた大森氏頼が病死。相模最大の勢力を誇る鎌倉以来の名門三浦時高が後継者争いで養子の道寸に殺害と、早雲にとってこの上ない事件が立て続けに起こったのです。

 そしてその時、1495年9月某日。

 小田原城主は大森氏頼の次男藤頼でした。大森氏頼・藤頼父子と早雲は扇谷上杉氏傘下の同僚として以前から交流がありましたが、父の氏頼は早雲の野心を見抜き心を許しませんでした。氏頼亡き後、子の藤頼がお人好しであることに目をつけた早雲は、大量の贈り物を藤頼にして彼を油断させていました。その日、早雲は伊豆の山で鹿狩りをしていたところ、鹿の群れが箱根山に逃げ込んでしまったので、勢子(獲物を追いたてる狩人)を越境させて欲しいと小田原の藤頼に依頼しました。すっかり早雲を信じ込んでいた藤頼は「早雲庵の手際の悪さよ。」と笑ってこれを許しました。それこそが早雲の思う壺、箱根山に入ったのは勢子ではなく早雲揮下の精鋭と千頭もの牛。早雲は夜になるのを待って、牛の角に松明をつけ、箱根山の麓である小田原に向けて牛を放ちました。真夜中に突如起こった松明の群れと牛のいななき、軍兵のときの声。小田原城中は何者による襲撃かも確認できず(早雲が今川の援兵を率いて襲撃してきたと考えるのが妥当か?)大混乱となり、大森藤頼は戦わずして城を棄てて平塚の真田城へと逃走してしまいました。早雲が用いた千頭もの火牛は木曽義仲が用いたような兵器ではなく、敵を欺く偽兵だったのです。

 こうして北条早雲こと伊勢早雲庵宗瑞は関東進出の第1歩を記したのです。この後、彼は残る生涯を相模の最大勢力である三浦道寸との戦いに費やし、1516年に三浦半島新井城に籠る三浦氏を滅ぼして相模を平定し、その3年後に死去しました。早雲から氏綱、氏康へと北条氏は扇谷・山内上杉氏と戦いながら関東に勢力を拡大し、3代目氏康のときには両上杉氏を滅ぼして、遂に早雲が夢見た2本の大杉を倒したのです。更に氏政、氏直の時代はほぼ関東全域を支配下に置き、小田原北条100年の栄華を今に伝えます。

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コメント

iphoneからのほうが見やすいです。
はい、iphone、すぐiphone

次の会社でiphoneが支給されるらしい・・・。(滝汗)
使ってみて良かったらドコモのレグザフォンにしようかな。

デジカメはついつい家に忘れ勝ちだし、ブログネタ収集のため、カメラ性能の高い携帯が欲しいですね。

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