猫間中納言
さて、前回に続き猫にまつわる話を続けてみましょう。
平家物語に猫間中納言こと藤原光隆という人が登場します。中納言は官位ですが、なぜ「猫間」と呼ばれたのか?この人は京都洛中、後世に新撰組の屯所が置かれた壬生という場所に住んでいたそうですが、壬生という地名が猫間と呼ばれた時期があったそうです。彼は摂関藤原家の本流ではないにしろ、平安時代末期に「天下一の大天狗」と呼ばれた策謀家後白河院(法皇)の近親として活躍した人です。
ときは1183年初夏、北陸道で平家軍を打ち破った木曾(源)義仲は、勢いに乗って平家を都落ちさせて入京を果たします。しかし、義仲に率いられた信州、北陸地方の田舎武士たちは、京都の華やかさや豊かさに浮かれて略奪や乱暴狼藉の限りを尽くし、都人を恐怖に陥れました。見かねた後白河法皇が義仲のもとへ交渉役として派遣したのが、猫間中納言こと藤原光隆でした。
さて、両者対面の場面は、義仲の礼儀知らずな田舎武者の一面と共にユーモア溢れる人物像が描かれています。
家臣から猫間中納言の来訪を知らされた義仲は「なに、猫が人に会おうというのか?」と大笑い。のっけから飛ばします。家臣が慌てて
「いえ、猫ではなく猫間中納言という公卿様です!」と取り繕うと、義仲
「猫殿のせっかくのおこしであるから飯をお出ししろ。猫は生魚を好むゆえ、生魚ではないが生平茸があるのでそれをお出ししろ。」と饗応接待を命じます。山盛り飯、菜物、平茸汁の膳が出されると、猫間中納言は京都の貴人ですから、配膳の見た目の悪さに
「今は腹が満たされておりますゆえ。」と辞退します。そこは頓着しない義仲
「これは木曾田舎流の精進料理ですから遠慮せずに。」としつこく勧めるので、
さすがに悪く思ったのか、中納言は箸をつける仕草をします。それに気付いた義仲は爆笑して
「猫殿は小食でいらっしゃる。猫は猫らしく食い散らかすものじゃ。さあ食った!食った!」とはやし立てたので、
猫間中納言はすっかり交渉をあきらめて逃げ帰ってしまったということです。
平家物語で語られる源平合戦の血生臭い時代にあって、木曾義仲の田舎者振りと京の高潔な作法を食ったようなユーモアが面白いですね。
しかしこの後、木曾義仲は後白河院を恐喝するような形で征夷大将軍を拝命し、「旭将軍」と世に知られましたが、そこは「天下一の大天狗」後白河院、やられっぱなしではありません。院は水面下で義仲の排除を画策し、鎌倉の源頼朝に義仲追討の院宣を下したので、頼朝は義仲討伐のため弟範頼、義経を大将とした大軍を京都に派遣します。義仲入京の翌年1184年1月宇治川で両軍は激突し、衆寡敵せず義仲軍は敗退。敗走した義仲主従は近江国(滋賀県)粟津で捕捉撃滅され、義仲は戦死します。享年31歳の若さでした。
最後に蛇足です。猫間中納言こと、藤原光隆の子供に「小倉百人一首」第98番の歌人従二位家隆がいます。季節外れの和歌で今回は終了。
「風そよぐ ならの小川の 夕暮れは みそぎぞ夏の しるしなりける」
(楢の葉が風そよぐ夕暮れ、川でみそぎ(禊)をする光景はいまだ夏である証拠だ。)
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ももひきやぁ~
古けて破けて、ケツが出て~
冬の寒さに、チ○コ縮まる~
と言う歌を小、中学時代に詠った記憶が蘇りましたw
投稿: どっちー | 2011年3月 3日 (木) 21時39分
その手の歌(言動)なら「一人百首」くらいはお手の物でしたからね
投稿: 山笑海笑 | 2011年3月 3日 (木) 22時35分
↑のような下ネタを話す関東の田舎武者には飽き飽きするわ!
By京都都人
投稿: 残党 | 2011年3月 6日 (日) 13時20分
我が郷里の痴れ物がとんだ醜態を。
投稿: 街笑 | 2011年3月 7日 (月) 09時38分