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2011年12月10日 (土)

奇襲は日本のお家芸

 「トラ・トラ・トラ ワレ奇襲ニ成功セリ」真珠湾奇襲攻撃成功の暗号電文は、大東亜戦争開戦劈頭の日本軍の大勝利を象徴するものです。そもそも「奇襲」とは、敵の予期せぬ時期、方向、速度で攻撃をかけ、敵の混乱に乗じて、あるいは対応行動に入る前に撃破してしまうハイレベルな速攻性をもった戦術といえます。この戦術は歴史上、しばしば小勢力が大勢力を撃破する場面で用いられたことから、小兵をもって大兵を打ち倒す巧妙さを好む日本人に奇襲はもてはやされ、明治以降の軍隊教育においても奇襲攻撃を重視する傾向がありました。

 日本戦史において、奇襲戦術は武家の登場以来しばしば用いられ、古くは源平合戦において、源九郎義経による一ノ谷鵯越や屋島御所襲撃に見られましたが、この時代は敵味方が名乗りを上げて正面決戦をすることが常道で、敵の裏をかく一種の騙し討ち的な奇襲は、夜討ち朝駆けと共に武士の道にもとる卑怯な戦術とされました。しかし、後世の人々は義経の戦巧者振りと悲劇的な結末に同情し、判官贔屓に象徴されるように彼の戦術は華々しく語り継がれました。

 下って戦国時代、下克上の横行と足軽の登場によって、戦いの古式が崩壊すると、奇襲は弱小勢力の常套手段として当たり前の戦術となって、しばしば歴史を動かす場面が見られました。有名なものだけでも…

1546年 河越城を囲んだ山内・扇谷上杉氏、古河公方足利氏の大軍を北条氏康が撃破した河越夜戦→扇谷上杉氏滅亡。両上杉氏に代わって北条氏が関東の覇者に。

1555年 毛利元就が陶隆房の大軍を小さな宮島に誘き出して、海山から攻め立て撃破した厳島の戦い→陶隆房が戦死し、毛利元就が中国に勢力を伸張。

1560年 織田信長が領内に侵攻した今川軍の本陣を突いて、大将今川義元を討った桶狭間の戦い→今川家衰退し、信長は濃尾、畿内に勢力を伸張。

1570年 佐賀城を包囲した大友軍の本陣を籠城方の龍造寺軍が奇襲し、大将大友親貞を討った今山の戦い(実行部隊は鍋島直茂)→龍造寺氏拡大し、九州三国時代鼎立。

1584年 有馬晴信を討伐するため島原半島に侵攻した龍造寺隆信の大軍に対し、援軍の島津家久が山と海の隘路で撃破した沖田畷の戦い→龍造寺氏衰退し、島津氏伸張。

などが有名ですが、大体これらは天候、地形、敵情などの諸条件が揃い、さらに敵を凌駕する諜報力と隠密性が必須となり、一種賭け的な要素が強ので、勝者たちはその後奇襲を用いなかったといわれています。また、乾坤一擲の勝利は敵の中枢を消滅させるほどの完全勝利でないと、強弱の絶対的勢力差は変わらないので、後に来るであろう復讐戦で敗れる可能性が強くなるわけです。先述の戦国の例についても、敵に与えた打撃は何れも総大将が戦死するレベルの完全勝利でした。

 近代になり、日露戦争の開戦時においても、日本海軍はロシアとの国交断絶と同時に国際港であった朝鮮半島仁川港に停泊するロシア巡洋艦と砲艦を撃破し、旅順港深く侵入した水雷艇が魚雷攻撃を仕掛けて、在泊するロシア戦艦に損傷を与えました。日露戦争は結果として、小国日本が大国ロシアを陸海で破り勝利したため、発展途上であった日本人を自信過剰にし、敢闘精神と巧妙な作戦をもってすれば、大国といえども恐れるに足らずという誤った世界観が生じてしまったのです。その巧妙な作戦の中で、奇襲は第1のお約束のようなものでした。

 大東亜戦争開戦時の真珠湾攻撃やマレー上陸も、奇襲攻撃=宣戦布告という日本のお家芸だったわけです。

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