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2012年3月 2日 (金)

帰ってきた若獅子 富士山麓ドライブその1

 間もなく2年の派遣期間を満了して出向母体に戻ることになります。2年間飲み語らった同僚も西に帰るのでお別れです。そんな同僚の餞として、2月最後の土日に我が家に招待しました。2月26日(日・昭和維新の日)東名富士ICから富士宮道路を経て、朝霧高原にやってきました。この日は時折雪がちらつく寒い日で、大きく見えるはずの富士山は全く見えませんでした。

P1020839 若獅子が希望を抱いてくぐり、出征した門も残ります。

P1020828 若獅子神社は少年戦車兵学校の一角(上の方) 

 最初に訪れたのは、富士宮市の若獅子神社です。ここは、千葉市穴川にあった陸軍戦車学校から、昭和17年に分科された陸軍少年戦車兵学校が設置されていた場所です。十代半ばの少年達が2年の課程をこの学校で学び、彼らは「若獅子」と呼ばれて、海軍航空隊の「若鷲」と並んで当時の少年達の憧れの的でした。折から悪化する戦局に、門をくぐって出征した若獅子の多くが、フィリピン・ルソン、沖縄、あるいは移送途中の支那海で戦死しました。その数6百名といわれています。

P1020830 若獅子の塔 P1020836 若獅子神社

 昭和40年に少年戦車兵学校の同窓生が、戦死した仲間を弔うために、当時の学校敷地の一角に「若獅子の塔」を建立、その後昭和59年には若獅子神社が建立されました。私たちのような歴史好き、あるいはミリタリーマニアにとっての目玉は、97式中戦車チハです。

 97式中戦車チハは、昭和10年代に入って旧式となった89式中戦車の後継として開発され、歩兵支援用の57ミリ砲と機関銃2丁を搭載し、最大装甲厚25ミリ、揮発性の低い空冷ディーゼルエンジンは170馬力、最大速力38kmを発揮し、当時の世界水準に達していました。デビューは昭和14年のノモンハン事件でしたが、ソ連の装甲部隊の戦車や45ミリ対戦車砲に次々と撃破される幸先の悪い初陣となりました。しかし、陸軍は後継戦車の開発を怠り、97式中戦車は終戦まで米軍のM4戦車を相手に悲惨な戦いを繰り返し、「走る棺桶」などと酷評されました。ちなみにチハというコードは、チが中戦車を表し、ハはイロハでいう3番目、即ち3番目に開発された中戦車ということになります。

P1020835 帰ってきた若獅子 P1020831 弾痕が戦闘の激しさを語る。

 若獅子神社境内の97式中戦車は、戦後30年を経てサイパン島で発見され、帰還した2台のうちの1台で、もう1台は靖国神社遊就館に展示されています。新造時のように化粧された靖国チハに比して、若獅子チハは長年の風雨に耐えたことを物語るように赤茶けて、車体の前面や側面には戦闘の激しさを今に物語る複数の弾痕が目立ちます。弾痕は前面及び左前方に集中し、この若獅子が決して敵に背を見せず降り注ぐ弾雨に突進したことを語っています。

 遠く祖国を離れた南方で、お国のため、愛する家族のために一命を投げ打った4名のクルー、更には若獅子一同に敬意を表さずにはいられません。

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