油壺ってこんなところ
京急油壺マリンパークでおなじみ、「油壺」という変わった地名。三浦半島先端部の西に延びる小網代の半島に切り込んだ湾は、波風の影響なく、油を流したような静かな海面であることから名付けられたという話が一般的なのですが、実は戦国時代にこの場で行われた壮絶な籠城戦が由来でもあります。
戦国時代の先駆者となったのが、おなじみ小田原の北条早雲こと、伊勢宗瑞。応仁の乱で荒廃した京から流れて、駿河今川氏の軍師となり、足利公方から伊豆を切り取り、更に箱根を越えて関東管領上杉氏の家臣大森氏の小田原城を奪います。後に関東一円に勢力を拡大させる北条氏の第一歩ですが、早雲一代では、相模国と武蔵の一部を切り取ったに過ぎません。(参照http://yama-umi.cocolog-nifty.com/blog/2011/02/post-92ed.html)
1495年に小田原城を奪った後、早雲が死去する1519年までの25年間は、電撃的なデビューとは対照的な時間です。遅咲きの彼が余生の貴重な時間をつぎ込んで倒さねばならなかった相手が、相模最大の勢力三浦氏でした。この三浦氏、坂東八平氏の一族で、頼朝の開幕を助けて北条氏(前北条)のライバルとなるも、謀略に敗れて宝治合戦で滅亡し、一時歴史の舞台から消えていました。
その後、支流が執権北条氏、その後の関東管領と結びついて、戦国大名として勢力を取り戻していました。この三浦氏に関東管領上杉氏から養子入りし、養父を殺害して三浦氏を乗っ取ったのが道寸義同(よしあつ)です。父は扇谷上杉氏。母は早雲に小田原を奪われた大森氏ですから、早雲の宿敵ともいうべき血統なのです。早々に嫡子義意に家督を譲り、三浦の新井城を守らせた道寸は、相模中央部平塚市岡崎城に進出して、小田原の早雲に抗します。
後に戦力を蓄えた早雲に岡崎城を攻められ三浦半島に退いた道寸は、半島先端部の居城新井城に殻に籠ったサザエのように3年間籠城し、早雲に抵抗しましたが、救援の上杉軍は早雲に返り討ちにされ、対岸の同盟者里見氏を頼ることもなく、1516年に矢尽き刀こぼれてついに自刃。嫡男荒次郎義意も敵中に切り込んで戦死し、三浦氏は再び血統が違う北条氏によって滅ぼされてしまいました。この3年に及ぶ激戦で小網代の湾は血潮に染まり、生き残った三浦一族は湾に身を投じたため、人の血や脂でよどんだ湾を住民は油壺と呼んだそうです。
実を申しますと、この山笑も三浦党の末孫ですから、早速天然児とともに道寸を救援に参じた次第。マリンパークの駐車場から道寸の姿を求めて海岸線に下りようとしたところ、急坂に天然児のブレーキがかからなくなって暴走!樹林に消えた天然児を追っていくと、正面から転倒して呼吸困難な状態に(汗)助け起こしたところが、何と三浦道寸の墓前だったのが皮肉なことです。
道寸辞世の句
「討つものも 討たるるものも 土器(かわらけ)よ くだけて後は もとのつちくれ」
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