« シロピーちゃんの寝床 | トップページ | おらが町が全国ネット »

2013年1月12日 (土)

数奇な人生の宮さんがいたものだ。

 久しぶりに歴史のお話。宮城の北、江戸城北の丸公園の片隅に騎乗の軍人さんの銅像があります。千鳥ヶ淵から竹橋方面に歩くときにいつも気になっていたのですが、先日ちょっと立ち寄ってどなたか確認してみますと、北白川宮能久親王さん・・・「あー!」と驚き。それもそのはず、昨年吉村昭の「彰義隊」を読んだばかりだったからです。この作品には、江戸から明治への戊辰戦争のときに、彰義隊に担がれて賊軍となった北白川宮の数奇な運命が描かれています。

 親王ですから皇族ということなのですが、伏見宮家の第9王子ということで庶子中の庶子。皇族庶子の人生らしく、江戸幕府最後の年(慶応3年)に徳川将軍家の菩提寺である上野の東叡山寛永寺の管主、同時に日光輪王寺の門跡となって、「輪王寺宮」と称されてました。将軍から庶民まで慕われた人格の持ち主だったそうです。

 しかし、激動の時は流れ戊辰戦争に突入すると、宮は幕府の依頼で将軍徳川慶喜の助命と江戸攻撃中止の嘆願をするため駿府(静岡)に赴き、征東軍の大総督有栖川宮熾仁親王と会談します。しかし、嘆願は一蹴されて、上野に戻ることになりました。結局、将軍の助命と江戸無血開城は歴史的に有名な勝海舟・西郷隆盛の会談で成立することになりましたが、幕臣の強硬派彰義隊が輪王寺宮を旗頭にして上野に籠り上野戦争が勃発。

 その後、彰義隊は脆くも大村益次郎率いる官軍に撃破され、寛永寺は焼失してしまいますが、上野陥落時に官軍に恭順すると思われた宮は東北に逃れ、何と還俗して奥羽越列藩同盟の盟主となってしまうのです。宮の心境や如何に?吉村昭の「彰義隊」では有栖川宮熾仁親王以下の官軍の宮に対するぞんざいな扱いに対して、幕臣、江戸庶民への恩顧心が描かれていました。これまた、盟主の仙台藩が官軍に降伏すると、宮は京都に送られて蟄居の身となってしまいます。

 明治2年に宮は蟄居を解かれて、伏見宮家、更に北白川家の相続を許されて、能久の名を贈られます。翌年、プロイセン(ドイツ)に留学し軍人としての道が開かれますが、プロシア貴族の未亡人と恋仲となり政府首脳を驚かせることもありました。明治10年に帰国すると陸軍の中に身を投じて中将まで昇進し、また日独交流事業にも尽力しました。

 明治28年、日清戦争の勝利で清国から割譲された台湾を平定するため、近衛師団長として台湾派遣軍の指揮を執りますが、平定を目前にしてマラリアにかかって48歳で陣没されました。宮家の庶子として江戸に送られ、その後賊軍として流浪の身となって、最後は勅命に従い志半ばで異国の地に没した宮を、人々は日本武尊に例えて哀れむと同時に、神として崇拝しました。

1301130217 北の丸公園で勇ましい宮の姿に会えます。

 ♪太平洋の空遠く 輝く南十字星 黒潮しぶく椰子の島・・・の歌いだしは、大東亜戦争開戦直後、マッカーサー元帥をフィリピンから駆逐し、敗戦後マニラ軍事法廷で処刑された本間雅晴中将が作詞した「台湾軍の歌」です。この三番目の歌詞が、台湾平定で陣没した宮さんを唄っていますのでご紹介します。♪歴史は薫る五十年 島の鎮めと畏(かしこ)くも 神去りましし大宮の 名残を受けて蓬莱に 勲を立てし南(みんなみ)の 護りは我ら台湾軍 嗚呼厳として台湾軍

« シロピーちゃんの寝床 | トップページ | おらが町が全国ネット »

歴史」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1468968/48711449

この記事へのトラックバック一覧です: 数奇な人生の宮さんがいたものだ。:

« シロピーちゃんの寝床 | トップページ | おらが町が全国ネット »