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2013年4月21日 (日)

ラピュタは本当にあったんだ! 播但城巡りその2

 三木を後にしましてR175を北上します。田園風景に延びる道を快調に飛ばせば気分は「イナゴ」ライダー?その後、山陽道を西進して姫路の北まで行って、さらに播但道を北上。周辺の山々はミツバツツジのピンクで飾られています。それにしてもミツバツツジが多い!私はこの花が好きで、以前購入したものが猫の額にも1本植わっていますが元気がありません。1本しっこ抜いていきたいくらいです。

P1080269 沿道のいたるところにミツバツツジが

 民俗学者柳田邦男先生の故郷福崎町で中国道を跨いで、さらに北上します。中国山地はそれほど高山がないのですが山が深く、驚くべきは古くからその深部まで人の手が及んでいることですね。銀山と幕末の騒乱で有名な生野なんて、田舎町の地名ひとつを見るたびにワクワクしてしまいます。

 しばらく行くと、道路前方にこんもりそびえる山上に石垣が見えてきました。この石垣こそ、近年「天空の城」、「日本のマチュピチュ」などと呼ばれて話題になっている竹田城です。廃城になってから400年以上経過して、天主や郭は存在しないものの、山上には見事な石垣が当時のまま残されていて、特に周囲の盆地に朝霧が立ち込めたときに城が浮かぶ姿は当に天空の城ラピュタだとか。その絶景を求めて多くのカメラマンや観光客が訪れますが、チャンスというものはそう簡単にはないようです。

P1080273 ランランララランランラン、ランランラララ(違うか)

 この竹田城、室町幕府の重臣で、応仁の乱では西軍の総大将になった山名宗全が築城し、山名四天王と呼ばれた家老太田垣氏が居城としていました。戦国期になると山名氏は衰退して、但馬の国は隣国播磨同様に織田・毛利両軍の攻防の地となります。竹田城は羽柴秀吉の弟秀長の軍に陥とされると、秀吉軍に従っていた播磨の龍野城主赤松広秀が城主として入封しまし、広秀はこの城を近代城郭として改築、完成させました。豊臣政権後の関ヶ原の戦いで、城主赤松広秀は西軍のに属し、細川幽斎が籠る丹後田辺城を攻撃します。後に東軍に加わるも、戦後切腹を命ぜられて滅亡してしまいました。同時に竹田城は廃城になってしまいましたが、その立派な石垣遺構は現在まで残されました。国敗れて石垣ありですね。

 某アウツな架け橋屋さんから戴いたカレンダーの1枚を飾っていた、雲海に浮かぶ竹田城を見たとき、いつかはこの地を訪れてみたいと思っていました。そんな思いを知ってか、今回ご厄介になった架け橋屋さんも気を利かせてくれたのですが、ご夫婦で先日訪れたばかりのようでしたので今回は辞退しました。それに今回は目的地が別にありましたので。

P1080277 「ラピュタは本当にあったんだ!」

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コメント

「バルス!」って言えば崩壊するかな・・・?

言葉を慎みたまえ!君はラピュタ王の前にいるのだ。

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