嗚呼、大楠公戦死の地 ブラ神戸その2
神戸の港湾部から離れて、繁華街に向かいます。目指すは福原、新開地・・・と、まあ、なかなかそんな男気はありません。
神戸駅近くにある湊川神社にやってきました。ここは1336年に後醍醐天皇の建武の親政に反旗をひるがえし、九州で力を得て京都に攻めあがってきた足利尊氏の大軍を楠木正成が迎撃した場所です。
楠木正成は当初、足利の大群に正面から挑む戦術を愚として、足利軍を一度入京させて、油断をしたところを新田義貞軍が比叡山から、自分が河内から挟み撃ちする作戦を上申しますが、戦を知らない天皇の側近たちは、「天皇を都落ちさせて京を戦火で灰燼にさせることは許さず。」とこれを一蹴してしまいます。
死を決意した正成は、出陣の折、桜井の駅(大阪府島本町)で嫡子正行に生き残り天皇への忠義を貫くよう諭して、河内の本拠に帰らせました。この「桜井の別れ」という伝承は、戦前の忠君愛国の教育を受けた人は誰もが知っている名場面です。
その後、5万、10万といわれる足利の大軍と楠木勢僅か700騎と新田義貞らの1万ほどの朝廷軍は摂津湊川で会戦となりました。圧倒的な兵力と水陸連携した足利軍の布陣に、新田軍本隊は戦半ばで戦況不利を悟って撤退し、これを戦場から逃すために楠木勢は戦場に踏みとどまって善戦した後、生き残った正成、弟正季ら一族郎党ことごとく自害して果てました。
楠木正成の最後まで天皇への忠義を貫いた姿勢は、幕末維新の勤皇家たちの信仰を集め、明治になって正成が戦死したこの地に湊川神社が創建されました。今では「楠公さん」と呼ばれて地域の人々に親しまれています。また、戦前の修身教育に忠君の鏡として採用されたことによって、楠木正成の名は国民に深く愛されることとなりました。それとは反対に、足利尊氏には逆賊としての悪者イメージがつきまとうことになります。
太平洋戦争終戦時、連合艦隊の参謀長であった宇垣纏中将は、最後の特攻隊を編成して自ら機上の人となりました。この行動を軽挙として思いとどまるよう進言した部下に対して、宇垣は「湊川だよ」と一言つぶやいたといわれています。彼の決断については、賛否両論に分かれるところなのですが、正成の遺徳が戦中戦前を生きた人々の思想に影響していたかを現すものかと思います。
折りしも、5月26日には楠公武者行列というお祭が開催されるとのことで、境内は準備に慌しい状況でした。本殿に参拝した後、裏手の木立に囲まれた正成の墓所に手を合わせると、何やら身の引き締まる思いでありました。(つづく)
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