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2013年8月23日 (金)

阿武隈高地のスポット巡り 前編

 福島県の中部、交通の要衝中通りと原発事故で被災した浜通りの間には標高1千m弱の低山が南北に連なる阿武隈高地があります。同じ山がちの地形でも県内の会津地方に比して山容もなだらかで冬場であっても降雪量は少なく、山間部の土地には古くから人の手が入り、歴史の舞台にもなってきた地域です。しかし、大規模な観光地が存在しないため、観光目的でこの地域を訪れる人は少ないようです。

P1100400 あぶくま洞の切羽岩壁

 8月13日(火)、いわきから磐越道を経てこの地域最大の観光地ともいえるあぶくま洞にやってきました。ここは20年ほど前に友人と訪れたことがありましたが、山腹の巨大な切羽の岩壁が視界に入ってくると記憶が甦ってきました。カルストと呼ばれる石灰岩の台地では昔から石灰岩や大理石の採石が行われてきましたが、今から約40年前に偶然採掘鉱がこの鍾乳洞にぶち当たって、神秘の地底洞窟が人目に触れることになりました。

 約3kmに及ぶ洞窟の総延長のうち、遊歩道が整備されて一般公開されているのは600mですが、一般コースとは別に探検コースという難易度の高いオプショナルコース120mが公開されています。夏でも気温は15℃程度、ひんやりとした洞内には数千万年のときが形成した鍾乳石の造形が実に見事でした。赤や青のライトに照らされた鍾乳石は、ときに生命を吹き込まれ、ときに異星の風景を想わせる神秘的なものでした。写真撮影が禁止なので、その美しさをお伝えできないのが残念です。

 R349を北上して田村市から二本松市に入ります。二本松といえば菊人形まつりで有名な中通りの二本松城(霞ヶ城)が有名ですが、R349沿いの地域は最近二本松市に合併したので、その昔は四本松郡(塩松・しおのまつごおり)と呼ばれた地域でした。立ち寄った道の駅「ふくしま東和」で地図を眺めていると、この周辺には百目木(どうめき)、小手森、小浜など歴史好きにはピンと来る地名が並んでいるではありませんか!とりあえず道の駅から一番近い小手森城址に寄ってみることにしました。

 戦国時代も終わりの頃、四本松郡は石橋氏が領する地域でしたが、重臣である小浜城主大内定綱、百目木城主石川弾正が勢力を伸張して、大内氏が南の三春城主田村氏と、石川氏が東の中村城主相馬氏とそれぞれ結ぶようになると急速に衰退していきました。この頃、北からは米沢城主伊達氏が田村氏と婚姻を結んで、南北から仙道筋(中通り)と四本松郡に度々兵を繰り出してきました。これに対して東の相馬氏と西の会津黒川城主(現城会津鶴ヶ城)芦名氏が伊達に対抗して東西からこの地域に兵を入れたため、両勢力の攻防の地になりました。

 天正12年(1584年)に独眼竜こと伊達政宗が家督を相続すると、一旦は伊達氏に服属を約した小浜城主大内定綱ですが、翌年には芦名氏の圧力に屈して逆に伊達に対して敵対の姿勢を表したため、8月に伊達・田村連合軍は四本松郡に出兵し大内氏配下の小手森城を攻撃しました。大内定綱も小手森城に入り芦名の援兵も来援しましたが、抗し切れず小手森城は陥落しました。落城時に政宗は城内に籠っていた大内軍、周辺の領民ら8百名を女子供の分け隔てなく皆殺しを命じ、さらに牛馬、犬猫、虫けらに至る命あるものは全て殺すことを命じたといわれています。この世に言う「八百人斬り」は青年期の政宗の苛烈な面を代表する一件でした。この政宗の姿勢に大内定綱は小浜城を破却して会津に逃亡し、後に百目木城の石川弾正も相馬領に逃亡したので、四本松郡は伊達の勢力下になりました。

P1100408 「夏草やつわものどもが夢のあと」がぴったり

 国道から脇道に入って田んぼの中を少し行くと、小高い丘の麓に小手森城址と標示されていました。城址を目の前にしながらも、夏草が生い茂る山道を汗をかきながら分け入る気にはなりませんでした。サンダル履きだったのでマムシの心配もあったのですが、それ以上に多くの命が奪われた領域に踏み入れることに及び腰だったのかもしれません。

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