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2013年9月28日 (土)

忠義に厚い戦国トライアスリート

 前回に引き続き長篠城籠城戦のお話。天正3年(1575年)5月、武田の大軍に城を包囲された城主奥平貞昌は、岡崎にいた徳川家康に援軍を要請するため、屈強な家臣数名を城から脱出させます。その中の一人が鳥居強右衛門(すねえもん)です。出仕は身分の低い足軽でしたが、水練達者であることを買われた強右衛門は、5月14日夜半、豊川に身を任せて包囲網を脱したそうです。

 武田軍の包囲網を脱した強右衛門は、長篠城から岡崎まで直線距離で約40km(山道なので1.5倍ほどか)を半日で走破して、家康に援軍を要請すると、時折しも岐阜から織田信長が3万の大軍を率いて到着したところで、狂喜した彼は家康が休息を勧めるのを辞して長篠城に戻ります。この往復100km以上の走破は5月15日の1日のうちに行われたといいますから、彼の人並みならぬ強靭な体力がうかがい知れます。

 長篠城に近づいた彼は、城からよく見える山で援軍来援を伝える烽火を上げて、更に詳細を伝えるべく城に潜入しようとしましたが、運尽きて武田軍に捕らわれてしまいます。武田勝頼は織田・徳川の援軍到来を知って、城攻めに決着をつけようと、鳥居強右衛門に助命と高禄で召抱えることを条件に、城に対して、徳川の援軍は来ないので開城して武田に降伏すれば厚遇する旨を呼びかけるよう依頼します。

P1110174 城兵はここから強右衛門の死を見守ったことでしょう。

 武田勝頼の要請を受けて、強右衛門は城の対岸に立って呼びかけました。「あと2、3日もすれば、織田殿、徳川様の大軍が来援する。この目で見たので間違いない。堅く城を守りぬけ!」彼は武田勝頼をまんまと欺いて城内の仲間を励ましたのです。短気な勝頼がこれを許すはずがなく、強右衛門は城兵の目前で磔にされて壮絶な死を遂げるのでした。鳥居強右衛門勝商(かつあき)享年35歳。

P1110177 落合左平次の旗指物を模した看板です。

 鳥居強右衛門の壮絶な死と一命を投げ打った忠節に心打たれた城兵は、その後も武田軍の猛攻を食い止めて、織田・徳川の援軍が長篠の合戦で武田軍を破るまで、見事城を守り抜くのでした。彼の忠節に感銘したのは見方だけでなく、敵方の将兵にも大きな感銘を与えたといわれています。落合左平次という武田の家臣は強右衛門の磔死した姿を武士の手本として、自らの旗指物にデザインし、それは現在まで引き継がれています。

 この一連のドラマを目の当たりにした家康はこう言ったそうです。「武田勝頼は大将の器ではない。鳥居のような忠義者は命を助けて、家臣に忠義のあり方を示すべきである。それをああも無残に殺してしまうとは。いまに見ていろ。譜代の家臣であろうと勝頼を見放して武田は滅亡するであろうさ」家康の予言したとおり、7年後の天正10年(1582年)3月、織田軍の甲斐侵攻を受けた武田勝頼は、木曾義昌、穴山梅雪、小山田信茂など武田一門、譜代衆に裏切られてあっけなく滅亡してしまったのです。さすがは神君家康公。恐れ入りまする。

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