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2013年10月 3日 (木)

野間大坊に眠るもう一人の人物

 源義朝公の墓所の傍らには、それを見守るように鎌田政清夫妻の墓があることは前回紹介したところですが、鎌田夫妻と同じようにもう一人、歴史の闇に葬られた人のお墓が建てられています。織田信長の三男、三七信孝公です。私は信孝の墓が野間大坊にあることを知っていて訪れたのですが、不思議と寺内の案内板にもパンフレットにも標示がありません。あれあれ・・・と不審に思っていると、義朝の墓前まで来て、ふと脇にひっそりと建つ墓を見つけました。「あーやっぱり」と同時に「しかしまた何故?」という感じです。

P1110216 陽の当たらない信孝公の墓所

 織田信孝は、二人の兄信忠、信雄とは生母が異なるものの、才気にあふれ、容貌は父信長の生き写しであったといわれています。伊勢の名族神戸氏の養子となって神戸信孝と名乗り、父信長に従って一向一揆討伐など各戦線で武功をあげて、1582年には四国方面軍の総大将を任せられることになりますが、渡海準備中に本能寺の変が発生し、兵の逃亡によって軍勢は瓦解して大阪で身動きがとれない状況となります。

 明智光秀討伐のため中国から大返しをしてきた羽柴秀吉に担がれて、父信長の弔い合戦となる山崎の合戦では名目上の総大将になりますが、織田家後継者を決定する清洲会議では、筆頭家老の柴田勝家の推挙を受けるものの、羽柴秀吉や丹羽長秀、池田恒興の反対にあって、織田家の後継者は兄信忠の子三法師に決定してしまいます。

 怒った信孝は柴田勝家と組んで、賤ヶ岳の合戦では柴田軍の南下に呼応して岐阜城で挙兵します。しかし、秀吉軍の電撃戦で岐阜城を包囲され呆気なく降伏。知多半島大御堂寺(野間大坊)に幽閉されて、最後は秀吉の意を受けた兄信雄の軍勢に包囲されて切腹して果てました。信孝が残した辞世の句がまた何とも生々しいものですので紹介しておきます。

 昔より あるじ内海の 野間なれば 報いを待てや 羽柴筑前

 (昔より主人が討たれている野間で私も死に面している。今にこの報いを受けるであろう、羽柴秀吉よ) 

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