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2015年1月22日 (木)

牧場のロバが語る三増峠の戦い

 服部牧場では、馬や羊の他にもいろんな動物が飼育されていますが、その中でロバが数頭います。その中の1頭が囲いの端っこからじっとこちらを窺っています。この囲いの中には多くの羊や山羊、なぜかシマウマまでが同居しているのですが、ロバの周囲には1頭も近寄ってきません。何やら家畜らしからぬただならぬ殺気が漂っています。

Dsc09514 諸行無常の気配あり

 ロバの背後には愛川町と相模原市を隔てる三増の山が見えていますが、この山は三増峠の戦いのあった古戦場として戦国ファンには有名な場所です。今でも戦場となった上三増地区には、信玄道とか旗立松、浅利明神、首塚、胴塚などの旧跡が点在しています。

 1568年、甲斐の武田信玄は、駿河の今川氏、相模の北条氏との三国同盟を破棄して、駿河の今川氏真を攻めて遠江に追います。北条氏康は今川氏を助ける一方で、武田の仇敵である越後の上杉謙信と同盟を結んで武田への包囲網を築きました。

 翌1569年に甲斐の武田信玄は2万の兵力で北条領に侵入し、10月には小田原城下に襲来しました。それ以前に上杉謙信が10万の兵力で攻めても陥すことができなかった小田原城ですから、武田軍も陥すことなく相模川沿いに甲斐に引き上げていきました。信玄としては、小田原城を本気で攻めるつもりはなく、反武田包囲網の盟主北条氏の根拠地を攻めて武威を示すことが目的であったといわれています。

 さて、北条氏康も引き上げる武田軍をみすみす見送るほどお人好しではありません。氏康の子、北条氏照、氏邦が率いる武蔵方面軍と呼応して、武田軍を挟み撃ちにしようしました。北条氏の武蔵方面軍が2万の兵力で三増峠で待ち構えて、小田原から北条氏政が2万の兵力で追撃するという作戦です。挟み撃ちになれば武田軍は危機的な状況ですが、戦巧者の信玄がみすみす罠にかかるはずがありません。

 三増峠に布陣して武田軍を待ち構えるはずの北条軍が、どういう訳か地の利を捨てて峠から下ってしまったのです。信玄お得意の計略があったのかもしれません。その隙をついて武田軍は三増峠に登って、攻守逆転してしまいました。武名名高い北条氏照、氏邦、綱成ら北条の若武者らも信玄にとっては子供をあしらう程度のことだったのでしょう。

 10月8日、小田原からの追撃軍の到着を待たずして戦端が開かれました。緒戦は武田軍の布陣が整わないところに北条軍が激しい攻勢をしたため大乱戦となり、武田軍は二十四将の一人、浅利信種が戦死するなど大きな打撃を受けます。しかし、信玄は重臣山県昌景に命じて、別働隊5千を密かに北条軍の側面に回り込ませていたのです。不意を突かれた北条軍は、小田原からの追撃軍を待たずして崩れてしまい、武田軍は勝鬨を上げて甲斐に引き上げたそうです。ちなみに北条氏政率いる小田原の追撃軍は、この時点で厚木市荻野まで来ていましたので、信玄にとっては当に間一髪という戦いでした。

 天然児と憩うのどかな牧場周辺で、かの武田信玄や武田二十四将、北条一門が干戈を交えたことをロバは気で語っているようでした。

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