そして天然児の父になる
仕事帰りの電車の中で同級生の女性を見かけることがある。声こそかけないが、彼女を見ると懐かしく嬉しい半分、後ろめたさを感じてしまう。
彼女は少し知恵の遅れた子だったけど、私たちと共に通常学級の中で静かに生活していた。当時は今ほど障がいに対する周囲の認識がなかった。といえば、言い訳がましくなるが、彼女は人の言うことを素直に受け入れてしまうため、しばしば周囲からいじめの対象にされた。その中に私もいた。
風邪をひいて小学校を休んだ日。事件が起こった。私の親友が何かの拍子で彼女を突き飛ばして、前のめりに転倒した彼女は顔面を強打して前歯を折ってしまったのだ。親友の行為を信じられなかったのであろう。親友の親御さんは普段グルになっている私に事実確認の電話をしてきたが、無論病床の私が知る由もない。もし、その場に私がいたら・・・この悲劇を止められたであろうか。いや、むしろ突き飛ばしたのは私だったかもしれない。子供ながらにそんなことを考え動揺したことを今でも鮮烈に覚えている。
あれから30年の歳月が経って、私も父親になった。それも彼女と同じ天然児の父になった。あのときの事件を彼女の親御さんはどう受け止めたことだろう。愛する我が子がいじめを受け、身体的、精神的に一生残る傷を負わされた悲しみ、恥辱、怒り、苦しみ・・・今でもそれを思うと、子供ながらに自分たちの行った行為に恥ずかしさと悲しみを覚えずにはいられない。
彼女も成人し、社会人として自立している姿を見ることはとても嬉しい。外見的には当時受けた外傷も気にならない。しかし、心の傷はどうであろうか。彼女なりに当時の悲しい思い出は忘れることはないだろう。親御さんもまた然り。その苦味を噛み締めつつ、天然児を暖かく見守っていかねばならないと自覚するのである。
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