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2015年4月 3日 (金)

Castle Takatenjin

 今から15年ほど前のこと。ローマのホテルに宿泊したとき、退屈なので何気なくテレビのチャンネルを回していると、日本の時代劇がやっていた。よくよく見れば黒澤明監督の「影武者」だった。「影武者」は、武田信玄の影武者を務めた男と甲斐武田家の衰亡を描いた作品だが、その劇中で、徳川家康の軍が武田勢力下の遠州高天神城に攻め寄せるシーンがあった。外国語の台詞は聞いてもチンプンカンプンだったが、「Castle Takatenjin!」というところは心に残っている。

Dsc00419_2 後方の小高い山が本丸

 「高天神城を制する者が遠江を制する」とまで言われた高天神城は、掛川市の南部、遠州灘沿岸の平野部に小高くせり上がった高天神山に築かれた山城です。鎌倉時代には小規模ながら砦が築かれたそうですが、室町、戦国の戦乱を経て規模が拡大していきました。応仁の乱の頃、駿河国主今川義忠が遠江斯波氏との抗争の拠点として拡張し、重臣福島正成が城主となった時期もありました。

Dsc00417_2 往時を偲ぶ

 今川家の後継者争い花倉の乱で福島氏が滅亡すると、土豪の小笠原氏が城主となって今川義元の傘下として活躍しました。1560年の今川義元の死後、暗愚な義元の子氏真に見切りをつけた小笠原長忠は、遠江に進出してきた徳川家康に寝返って、氏真が籠る掛川城攻めにも加わっています。1569年に氏真が遠江から退去すると、翌70年には徳川家の旗下で近江姉川の戦いに参戦。浅井朝倉連合軍VS織田徳川連合軍のこの戦いでは、越前朝倉勢との戦いで大いに活躍しました。

Dsc00411 井戸曲輪付近。狛牛といえば・・・

 小笠原氏に休まる暇はありません。翌1571年、旧今川家の領土を分割する武田・徳川の協定が崩れて、武田信玄の率いる2万5千の大軍が遠江に侵入して高天神城を包囲します。小笠原長忠は武田方の降伏勧告に応じず籠城を続けると、信玄は包囲を解いて浜松の家康を攻めて、これを三方ヶ原で撃破しました。1573年に信玄は死没しましたが、後継者の武田勝頼は以前にも増して遠江の侵略に執心で、諏訪原城や小山城を拠点として、徳川との攻防戦が激化しました。

Dsc00412 そう、天神様です。「高天神」ですから

 1574年5月に武田勝頼は2万の大軍で高天神城に猛攻撃をかけました。小笠原長忠は家康に援軍を要請しましたが、家康に余力がなく、2ヶ月間の籠城戦の末、高天神城は降伏開城しました。この時の降伏条件は寛大で、降伏した城兵は武田につくか(東退)徳川につくか(西退)を選択することができたそうです。城主小笠原長忠は、武田勝頼に降伏して厚遇されましたが、後に武田家が滅亡すると小田原北条氏に逃亡して匿われ、更に1590年豊臣秀吉による小田原征伐の後、遂に家康に囚われて切腹させられました。家康は高天神城に援軍を送らなかったくせに、酷い仕打ちですね。

Dsc00414 掘割なんかも見れます。

 さて、武田の勢力下になった高天神城。城代として横田甚五郎尹松という武田の将が入城します。この人は武田信玄の数少ない負け戦、1550年の砥石崩れで殿を務めて戦死した横田高松の孫にあたり、赤備えで有名な武田家筆頭の重臣山県昌景の娘を妻に迎えています。

Dsc00418_2 籠城戦はシモの処理に困ったことでしょう

 1575年に有名な長篠の戦いで武田軍が大敗すると、徳川軍の遠江への反攻が著しくなります。この窮地に武田方は、今川家の旧臣で、家中一の猛将と言われた岡部丹波守真幸(元信)を高天神城の城将に据え、横田尹松を軍監としました。既に齢70の老将岡部でしたが、勝頼の期待に応えて、家康の軍をことごとく跳ね返していきました。

Dsc00406_2 ときは夕刻。霊気が満ちてきました。

 1580年になると、家康は正攻法を諦めて、高天神城の周囲に6箇所の付城を構築して、高天神城の包囲網を築く戦術に変更しました。包囲網が完成すると、武田方からの兵糧や弾薬の搬入が途絶え、さすがの高天神城も疲弊していきます。城方は甲斐に援軍を要請しますが、今度は武田方が高天神城を見捨てることになります。

Dsc00408 兵どもが夢の跡。遠州灘が望めました。

 そしてその時。1581年3月22日。深夜、万策尽きた城方は城門を開いて徳川軍に突撃し、城将岡部真幸以下約800名の残兵は玉砕しました。敗残兵のうち一部が西の尾根を伝って落ちのびましたが、その中に軍監横田尹松の姿がありました。彼は見事脱出に成功して、信濃経由で甲斐にたどり着き、落城の報を武田勝頼に伝えたといわれています。武田家滅亡後、家康に召し出された横田は、徳川家の旗本として厚遇されたそうです。

 落城時のドラマがもう一つ。高天神城には、今川の旧臣孕石(はらみいし)主水元泰という武将が籠城していましたが、かつて家康が今川義元の人質で駿府に住んでいた頃、徳川邸の隣人がこの孕石主水でした。子供の頃から鷹狩りを好んだ家康ですが、鷹や獲物が隣家に落ちることもしばしばあったようです。ある日家康が落ちた鷹を回収するため孕石邸を訪れると、主水は「三河の小倅には飽き飽きした」と嫌味を吐き捨てたそうです。根に持つタイプの家康。落城時に囚われた孕石主水の顔を見るなり、かつての記憶が甦り直ちに切腹に処したそうです。家康らしい陰湿さです。

 陥落後、家康は高天神城を廃城として、遠江の戦乱を象徴する名城は血塗られた歴史を閉じました。陽が西に傾き、夕闇迫る山域には何やら霊気が満ちてきたようです。これ以上長居したら亡者たちの虜になってしまうでしょう。足早に山を下りました。

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コメント

KUCHINASHI CASTLE!

太閤秀吉も落とせなかったくちなし城で
殿は満足、姫は少々不満足・・・

さすが不夜城攻めの名人

不適切です!あと、ピンクのセーターの参拝客も!

恥ずかしながら終電で帰ってまいりました。
邦氏は不適切です!
古の都にあやかって恭仁氏というのはどうでしょう?

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