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2015年5月31日 (日)

チャリ転がして七国峠越え

 長男が進学祝いにチャリンコを買ってもらいました。いわゆるロードバイクってやつです。導入モデルですが、乗りやすそうなのでたまに借りて転がしています。自動車での移動に慣らされた体には、久しぶりの自転車で、それもサドルの高いロードバイクですから、怖いし、お尻は痛くなるし・・・でも慣れてくると走る走る。二宮から秦野くらいまでは朝飯前ですね。自分が高校生のときは、ママチャリで大磯から平塚まで通っていましたが、片道4、50分の通学が非常に辛く感じられました。当時より体力は落ちているはずなのに、実に軽快に走れるのは軽い自転車のお陰なんでしょうね。

 さて、サイクリングもただ公道を往復しているだけではつまらないので、ちょいスポに寄り道もしています。

150524_064201 大山を望む七国峠

 平塚市と中井町の境に七国峠という場所があります。昔から小余綾郡(大磯、二宮)や中村郡(二宮、小田原東部、中井)と大住郡(平塚、伊勢原)を結んだ街道の要衝で、今でも多くの車がこの峠を越えていきます。その名のとおり、この場所からは相模、武蔵、上総、安房、甲斐、駿河、伊豆が見渡せたことからその名がついたそうです。

 でも、果たしてそれは可能なのでしょうか?相模、武蔵は是非もなくOK。安房、上総は三浦半島の向こうに東京湾が見える時があれば、富津岬(上総)と鋸山や富山(安房)くらいは見えるかもしれません。逆に相模湾の西に伊豆半島が見えることでしょう。まあ、これら海を隔てた遠望は、今はゴルフ場になっている高台から見えたのでしょうけど。

 さて、疑問なのは甲斐と駿河です。これは絶対ない!駿河は箱根連山が、甲斐は丹沢山地が遮って絶対見えるわけがありません。と、思う私は石頭。ほらほら箱根と丹沢の合間に白く堂々たるお山が見えるではありませんか。そう!富士山こそが甲斐と駿河だったんですね。う~む・・・納得。

 七国峠には鎌倉時代の逸話が残されています。この辺は平塚でも土屋という地区ですが、土地の豪族土屋宗遠は、源頼朝の開幕を助けた功労者です。しかし、宗遠は、嫡男忠光を石橋山の合戦で戦死させてしまいました。また、その後養子縁組した義清という若者を和田義盛の乱で失いました。相次ぐ子らの死に嘆き悲しんだ宗遠は、この地に松の木を植えて供養し、悲しみを癒したという供養松の逸話が伝えられています。

 ちなみに和田義盛の乱を簡単に説明しておきますと、時は1213年、源氏三代実朝の時代。幕府の有力御家人北条時政、義時親子は、源頼朝の死後、将軍を傀儡として実権を掌握することを企んで、障害となる二代将軍頼家や他の有力御家人を次々と葬ってきました。既に梶原、比企、畠山の各氏が滅ぼされて、次のターゲットは侍所別当(長官)の和田義盛です。北条氏の謀略に乗せられた和田義盛は挙兵。双方に応援が駆けつけて、鎌倉の町が灰燼に帰すほどの激戦となりました。しかし、和田方に味方を約束したはずの同族三浦義村が北条側についてしまい、和田一族はついに滅亡してしまいます。鎌倉に和田塚という江ノ電の駅がありますが、戦死した和田一族が葬られた場所と伝えられています。

 土屋宗遠の養子義清は、和田義盛の応援要請に七国峠近くの琵琶・杜けん山という場所までやってきて、さんざん心を迷わせた末、和田義盛の軍勢に加勢して戦死を遂げたといいます。土地には「行こか鎌倉 戻ろか土屋 思い乱るる杜けん山 今も地(血)に鳴くホトトギス」という民謡が伝わっているそうです。

 塔ノ岳や大山を見上げる峠の東屋で一息いれていると、ゴルフ場に向かう高級車が次々と上がって行きました。ベンツにBMW、レクサス・・・クラウンなんて可愛く見えてしまうなぁ。今の豪族は山で玉転がし。私は輪っかを転がして健康増進です。

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