好きな(だった?)あの人とサイクリングデート IN 川越
天然児がお泊りで朝からいない日。こんな日はかみも私もウキウキくんです。お爺さんは山へ芝刈りに。お婆さんは川に洗濯に・・・ではありませんが、お父さんは山へハイキング。お母さんは友人とお茶をしに。夫婦別行動が我が家の基本であります。
さて、今回はどこの山に・・・と支度をしていると、かみから「ちょっと待った!」何でも埼玉県の川越市で開催される骨董市に行きたいんだとか。友人がつかまらなかったので白羽の矢が立ったのでしょうけど、思えばこの古女房と二人で出かけるのも何年ぶり。たまには良いかもしれません。
川越市内を訪れるのは学生時代以来のこと。当時はR16号をえっちらおっちら、やたら遠い場所に感じられましたが、今では圏央道を使えば1時間半ほど。随分近くなりました。
川越は荒川と入間川が出合う場所で、土地が肥えてものなりが良く、また水運など交通の要衝として栄えてきました。鎌倉以来、武蔵党の豪族河越氏が本拠を構え、室町時代後期には、関東管領扇谷上杉氏の家宰であるかの太田道灌がこの地に河越城を築き、それ以降は北関東一の城下町として栄えます。
戦国期に小田原の北条氏が上杉氏からこの城を奪うと、扇谷上杉氏の当主朝定は、対立していた山内上杉氏や古河の足利公方と連合して、河越城を奪還すべく8万と号する大軍で河越城を包囲しました。対する北条氏康の軍は、城兵と援軍を合わせても1万ほどと劣勢でしたが、連合軍の本陣に夜襲をかけて討ち破り、上杉朝定を敗死させて扇谷上杉氏を滅亡させる大戦果をあげました。北条氏が関東の覇者の地位を確立した有名な河越夜戦(1546年)です。
江戸徳川の時代になると、江戸の北方を守る城として譜代の大大名が城主となり、「小江戸」と呼ばれ政治、経済の主要都市として繁栄しました。また、徳川三代将軍家光が河越城内で誕生し、春日局に養育された地なのですが、これは意外と知られていません。明治期になっても、埼玉県下の経済の中心都市としての地位は変わりなく、地方銀行が集まりました。その後の戦火も免れて、「小江戸」の町並みは今に残されて、多くの観光客が川越を訪れています。
川越の古い町並みは、観光資源としてメリットの反面、文化財保護の観点から道路の拡幅や都市整備の妨げとなっているデメリットもあります。このため、市街を訪れてみると、道は狭く曲がりくねっているため方向感覚がつかみにくく、人と車でゴザゴザと混雑していて不快感を覚えるくらいです。また、小江戸の街並みや河越城址、博物館など観光スポットは駅から遠く、かといって、道路と駐車場のキャパシティーがないので、車で乗り入れるとたちまち大渋滞を引き起こします。
この問題の対策として、川越市が導入しているのが自転車シェアリングです。まあ簡単に言えば、レンタサイクルを今風に言い換えたものなのですが、観光の起点となる駅や郊外の観光駐車場、博物館や街並みなどの観光スポットに、サイクルポートと呼ばれる無人のレンタサイクルの駐輪場が設置されていて、利用者は24時間、利用に応じてどこからでも貸出、返却ができる画期的な制度です。貸出はポートに設置されている端末の画面操作で行うため、市役所OBの管理人のおじさんとあーじゃ、こーじゃやりあう必要もありません。
能書きばかりになってしまいましたが、実際、自転車をこぎ出した感想ですが、自転車はタイヤが小さく乗りやすく、街乗りには最適です。かみもたいそう気に入って、乗って帰りたいと言っていました。(そのままR16号を走って帰ったら見ものですが)反対に道路事情がやはり欠点と言わざるを得ません。自転車専用の走行帯は比較的道が広い限られた場所にしか設けられておらず、場所によっては車と人の板挟みになって行き場を失います。住宅街の狭い路地に逃げ込んでも、容赦なく車が入り込んでくるので、鼻歌を歌う余裕もありませんでした。自転車専用の走行帯をもう少し整備したほうが良いようです。
骨董市が開かれている成田山別院、古い町並み、お菓子横丁を巡って自転車を返却し、博物館近くの小洒落たカフェに入って遅いランチ。子供が小さい頃は、チャリに子供を乗っけて住んでいた川崎・多摩地域をあちこちと出かけたものです。注文を待つ間、元カノとそんな思い出話に花が咲きました。
« 夏の終わりはアジ | トップページ | ぶどうあります。山猫軒直売所 »
「旅行・地域」カテゴリの記事
- 天然児3度目の身延山(2018.06.20)
- 富士宮浅間大社にアヒル鳴く(2018.06.17)
- 新井薬師で眼力を養う(2018.06.13)
- ガンダムとラグビーの街 上井草で御朱印集め(2018.06.12)
- 丹沢の麓に7万本のチューリップ(2018.04.12)
コメント