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2015年9月27日 (日)

武田典厩、川中島に死す

 戦国大名武田晴信(信玄)の弟に信繁という人物がいます。跳ねっ返りで父信虎に疎まれていた兄晴信と異なり、素直で温厚な性格であった信繁は父に愛されて、信虎は武田家の家督を信繁に譲ろうとしていたといわれています。

Dsc04142 武田典厩信繁

 兄の晴信が父を駿河に追放して武田家の当主に就いた後は、精力的に外征政策を行う兄を補佐して、裏方ながら常に冷静な判断・助言を行い、温厚かつ公正な性格は家臣団の人望が厚かったと伝えられています。信濃侵攻においては先手として活躍し、諏訪攻め、高遠攻め、村上攻めなど戦功を積むとともに、占領地の統治に手腕を発揮しました。

Dsc04144 八幡原古戦場で龍虎激突!

 永禄4年(1561年)9月の上杉政虎(謙信)との八幡原の戦い(川中島第四回戦)においては、武田軍は軍師山本勘助の献策した、軍勢を二手に分けて、妻女山に陣取る上杉軍を別働隊が攻め、妻女山から追い落とされた上杉軍を八幡原で武田本隊が迎え討つ挟み撃ち戦法、いわゆる「キツツキ戦法」を容れます。信繁は本隊右翼として八幡原に布陣しましたが、武田軍のキツツキ戦法は上杉政虎に見破られ、上杉軍は八幡原の武田本隊に殺到。乱戦の最中、武田信繁は戦死しました。享年37歳。信繁の死後は武田家中は統一性を欠き、武田家滅亡の一因になったといわれます。豊臣秀吉の弟で早世した秀長の立ち位置に似ています。

Dsc04137 曹洞宗松操山典厩寺

 長野市内、八幡原古戦場の一角、千曲川の畔に典厩寺(てんきゅうじ)というお寺があります。江戸時代にこの地を治めた松代城主真田信之が、川中島の合戦から60年を記念して、両軍の戦死者を弔うために建立したといわれていますが、典厩寺が立つ場所は武田信繁が葬られた場所と伝えられています。寺名「典厩」とは信繁の官職左馬助の唐式の呼称で、信繁は通常「典厩殿」と呼ばれることが多かったようです。上杉軍に討たれて首を持ち去られようとしたところを、家臣たちが「そうはさせじ」と取り返して、兄晴信に届けたといわれています。

Dsc04139 典厩殿ここに眠る

Dsc04133 春は桜が飾ります。

Dsc04138 血なまぐさいスポットも

 典厩寺の境内には、本堂ほか庫裏、信繁の墓とその遺徳を偲んで訪問した昭和天皇や東郷平八郎らの記念碑(樹)、川中島の戦い所縁の品を展示する記念館、信繁の首を洗い清めたといわれる井戸、立派なしだれ桜などがありますが、中でも知る人ぞ知られているのが閻魔堂です。閻魔堂には高さ5m、漆喰造の日本一大きな閻魔大王像が安置されていますが、1860年に松代藩主真田幸貫が川中島の合戦300年を記念して、戦死者の供養のために造られたそうです。

Dsc04135 「ノーモア・川中島じゃ!」

 真っ赤な迫力満点のお顔は、訪れる人々に争いごとを戒めるように訴えかけています。「ノーモア・川中島じゃ!」天然児の心には何を訴えたのでしょうか?

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