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2015年12月13日 (日)

戦国無双的おっさんここに眠る

 戦国一の兵法家と言われる武田信玄(晴信)。小国甲斐の守護から精力的に信濃、上州、東海へ進出して国土を広げた彼も、2度まで大敗を喫した強敵がいました。信濃小県(ちいさがた)郡の領主で葛尾城主村上義清です。小県とは今の上田市を中心とした地区ですが、諏訪、伊那、佐久方面に勢力を拡大した武田晴信は、佐久の領有をめぐって村上義清と対立します。

 天文17年(1548年)2月に村上氏の本拠小県を突くべく、諏訪を出陣した武田軍8千は大門峠を越えて上田原に進出し、葛尾城や砥石城から迎撃してきた村上軍5千と衝突しました。緒戦は武田軍の先陣である諏訪郡代・板垣駿河守信方が、勇猛さをもって村上軍を押し優勢でしたが、地の利がある村上軍は武田軍を引きつけておいて、一息ついたところを猛攻撃しました。深入りした武田軍の先陣は、この反撃で崩れ、大将板垣信方が戦死してしまいます。勢いに乗った村上軍は総反撃に転じ、武田晴信の本陣に殺到してきました。総大将晴信も負傷する激戦の中、板垣と並ぶ宿老甘利虎泰や初鹿伝右衛門ら侍大将が戦死する大損害を出して、武田軍は諏訪に撤退していきました。この戦いでは、勝利した村上方も小島権兵衛ほか侍大将が戦死する損害を出したため、不完全な追撃に止どまり、武田晴信を討ち取ることができませんでした。

 2年後の天文19年(1550年)9月の武田軍は上田に再度侵攻して砥石城を攻めますが、この時も葛尾城から出撃してきた村上軍に側撃されて敗れ、多くの損害を出して撤退しました。2度に渡って武田軍に手痛い打撃を与えて退けた村上義清ですが、両合戦で国力が疲弊し、以後の武田晴信の謀略により滅亡の一途をたどります。天文22年(1553年)、遂に村上義清は越後国へ落ちて、歴史は川中島の戦いへと続きます。

Dsc04983 背後の山並みに砥石城があります。

 さて、別所温泉から上田市街へ向かう途中、ちょっと寄り道して、千曲川南岸の上田原古戦場をウロウロしてみました。とはいえ、かつての古戦場は今や住宅地と耕作地が混在する地域で、古戦場のコの字も見当たりません。余りウロついていると不審者そのものです(汗)ようやく畑の中に板垣神社なるものを発見しました。この板垣神社こそ、上田原の戦いで戦死した武田軍の先陣板垣信方の墓所なのです。

 板垣信方は、武田信虎-晴信の二代に渡って仕え、甘利虎泰と並んで武田家臣団の筆頭格の地位に就いていました。若い晴信からの信頼も厚く、諏訪攻め、高遠攻め、佐久攻めと信濃侵攻では常に先陣として活躍し、諏訪郡代に任じられました。天文17年の村上攻め(上田原の戦い)でも先陣として出陣しましたが、先述のとおり戦死を遂げています。

 そんな勇将として名高い板垣信方ですから、大河ドラマ「武田信玄」や「風林火山」では、それは華々しく描かれていました。演じたのは、前者が菅原文太さんで後者がJJこと我らが千葉ちゃんです。クライマックスの上田原のシーンでは、殺到する村上勢の雑兵を斬って、斬って、また斬って!槍に突かれてもへし折って、さらに2、3人斬って、しまいには周囲から一斉に槍で突かれて、武蔵坊弁慶さながらの大往生を遂げていました。さながらTVゲームの「戦国無双」の如き、剣劇としては見応え抜群でしたが、史実ではこんなに斬りまくりではなかったことでしょう。敵の奇襲だ!ひるむな返り討ちにせよ!敵の御大将とお見受けした!下郎、何を小癪な!グサッ!終(笑)

Dsc04978 煙草を墓前に供える

 村上方の砥石城に連なる山並みを望む畑の片隅に、小さな五輪塔が祭られていました。周囲には人の姿もなく寂しげです。板垣戦死の地を訪れた人に伝える案内板には、板垣が煙草を嗜んでいたことが書かれていました。これを見た連れは、懐から煙草を取り出して、一服ふかして墓前に供えました。かつての英雄に敬意を表して。勿論、帰るときは水をかけることを忘れません。

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コメント

墓前に煙草を供えている奴・・・
Eの字ではないか?

ED、ED、カリーナED

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