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2016年10月16日 (日)

朝飯前に古城見物 後閑城

 4泊5日の研修中、毎朝1時間ほど研修所の周辺を散歩していたのですが、そのうち2度足を向けたのが後閑城址です。後閑城は、現在の安中市後閑地区、利根川支流のひとつ九十九川と後閑川の合流点付近、丘陵地の末端部分にある戦国期の山城です。室町時代嘉吉年間(1441~1444年)に信濃佐久地方の豪族依田氏によって築城されました。

Img_3675_2 実りの畦道から望む後閑城(左手奥に浅間山)

 戦国時代になると、上野国は国主である管領上杉憲政の勢力が弱まって、南から北条氏、西から武田氏の侵攻を受けるようになります。西上州は最大勢力の箕輪城(高崎市)主長野業盛が武田信玄に攻め滅ぼされ、安中城の安中氏、国峯城の小幡氏など有力国人も武田の軍門に下ることになります。この時期、後閑城は新田氏の後裔である後閑氏が居城としていましたが、後閑氏も他の国人衆同様に武田に属していたそうです。

Img_3574_2 後閑城の縄張り

 天正10年(1582年)に武田氏が滅ぶと後閑氏は北条氏の傘下となりました。その後、天正17年(1589年)に同国の真田領名胡桃城を沼田城の北条方が奪取するいわゆる「名胡桃事件」が生じると、豊臣秀吉は大名間の私戦を禁じていた惣無事令に違反するもとのして、北条氏の討伐を発令します。「豊臣軍来襲す!」北条領内に防衛体制が発令されて、各支城もこの時期に防御力強化のための大幅な改修が行われました。現在残る後閑城の縄張りも、この時期の姿と思われます。

Img_3612 堀切で隔てられた二の丸

 研修所から歩くこと15分ほど。小さな集落を抜けて、裏山に入るとすぐに後閑城の東口があります。階段状の山道を少し歩くと、二の丸と東曲輪群の分岐点です。時計回りに歩いてみることにしましょう。二の丸は本丸から見て東南に迫り出した尾根上にあって、ここには復元された物見櫓が立っています。この城にとっての想定される敵の進入路は、九十九川流域の南方面でしょうから、二の丸は敵を察知する重要な役割を担っています。

Img_3613 堀切に沿って南曲輪へ

Img_3616 南曲輪の野草園(雑草園)

 堀切を歩いて南曲輪へ向かいます。南北に延びる尾根上の南端に位置する後閑城ですが、二の丸~南曲輪にかけての南面(尾根の終端)は傾斜がきついので、天然の要害となっています。南曲輪には野草園らしい標示がありましたが、どう見ても野草というよりは雑草園です。しかし、籠城にあたって重要な薬の原料となる野草園があったことを窺い知れました。

Img_3671 西曲輪群から本丸へ延びる虎口

Img_3586 本丸から西曲輪群を見下ろす。

 後閑城の立つ地形は、西側が緩慢な斜面となっているので、防御上重要となってくるのが西曲輪群です。本丸に向かう虎口に沿って、百人規模の兵力が詰められる規模の大曲輪が三段に設けられています。本丸から西曲輪を見下ろすと、その配置が確認できました。また、本丸から西を望むと、妙義山や浅間山など上信国境の山並みがとても素晴らしく、本丸や西曲輪の桜が咲けば最高のお花見スポットになることでしょう。最初訪れたときは曇り空だったので、2度目で素晴らしい展望を得ることができました。

Img_3666_2 妙義山(左)と浅間山(右奥)

Img_3594 後閑城本丸

 後閑城の本丸には、「百庚申」と呼ばれる庚申塔群が置かれています。庚申講信仰とは、人の体内に住むといわれる「三虫」という虫が、庚申の日の夜に人が寝ると体内から抜け出て、神様に人の悪事を告げ口するといういわれから、庚申の日は夜を徹してお経を唱えたり、宴会をしたりする風習で、江戸時代に全国的に広まったといわれています。講中では、3年間18回の庚申講を行った後に、庚申塔を建てて以後の身の安全を祈願したそうです。安中市内を散歩していると、実に庚申塔が多いのに気づきましたが、この地域の庚申講信仰の厚さが伺えます。

Img_3598 本丸(右)と北曲輪ほ隔てる堀切

Img_3602 北曲輪の縄張りは必見です。

 最後に訪れたのが尾根に連なる北曲輪群です。北曲輪群は、本丸とは大きな堀切で隔てられていて、尾根上の主郭から西に五段ほどの曲輪が構築されています。本丸の西三段の曲輪ほどの規模ではありませんが、北五段曲輪の両側には大規模な堀切も設けられていて、西側の守備だけでなく、尾根伝いに北から敵方が進出してきた場合も想定しているようです。この北曲輪群は、後閑城跡の中でも特異な堅牢さが見られ、ここだけでも独立した城塞の機能を有しています。この辺に北条氏の監督の下に強化された、当時最先端の築城技術を窺い知ることができました。松井田城代だった重臣大道寺政繁あたりが縄張りに関与していたのかもしれません。

Img_3662 北曲輪群を横から

 さて、後閑城を時計回りに紹介してきました。天正18年(1590年)に豊臣秀吉の小田原征伐が行われると、上州方面には、前田利家や上杉景勝、石田三成ほか奉行衆などそうそうたる顔ぶれの別働隊が碓氷峠を越えて進行してきました。この地域の北条方の主拠点であった松井田城も激戦の末に陥落し、城代の大道寺政繁が降伏すると、上州の各拠点も雪崩をうって自落していきました。後閑城も城主後閑氏が小田原に在番中だったため、戦うことなく自落したようです。北条氏が滅亡した後、関東に入府した徳川家重臣井伊直政の支配下になりますが、程なくして廃城となったため、結局本格的な籠城戦を行うことなく現在に城跡が残されました。

 後閑城址は非常によく整備された城址公園ですが、まとまりが良くて短時間で全貌、特徴を捉えることができる城跡巡りの入門編だと思います。また、妙義山や浅間山の展望が素晴らしいのも魅力の一つですね。城好きマニア必見の場所だと実感しました。

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