毎年恒例の川越散策
ここ数年、夏の終わる頃に川越を訪れています。学校が夏休み中は天然児の対応に忙殺されていましたが、新学期も始まってホッと一息。夏休みの労いも兼ねた夫婦のデートの地が何故か川越になっています。数年前の家族旅行で新潟方面からの帰途、予想していた渋滞がそれほどでもなく、早い時間に帰ってきてしまったので、立ち寄ったのが川越でしたが、その時の印象が良くて、それ以来、毎年恒例の行事となっています。
川越は埼玉県のほぼ中央に位置していますが、平安末期から鎌倉期は秩父党河越氏の拠点であり、室町時代に扇谷上杉氏の拠点として家宰太田道灌が川越城を築城した後は、政庁、城下町として繁栄しました。徳川家康が江戸に入府すると政治の中心地を江戸に譲りますが、その後も川越は江戸の北の護りとして重要視され、川越藩は幕府の重職が歴代の藩主を勤めました。江戸と川越を結んだ川越街道は五街道に次ぐ脇往還として整備され、同じ頃新河岸川の水運が開発されると河越は物流の拠点としても大いに繁栄しました。
現在でも、JR川越線、東武東上線、西武新宿線など3路線と関越道が通じ、市街地で国道16号と国道254号が交差する交通の要衝地として、人口35万人を擁する中核都市として、また、市街地には古い町並みや本丸御殿、寺社仏閣などの建造物が点在しているので、「小江戸」と呼ばれて多くの観光客を集めています。
9・11、残っていた夏休を消化して今年も川越にやってきました。が…川越城本丸御殿や美術館は休館日でした。月曜日が休館日なのは図書館みたいですが、観光地なんだから定休日というのはいかがなものでしょうか。せめて定休日を設けるのならば、休日後の月曜日ではなく、水曜日とかにすれば良いのでしょうけど。
とうりゃんせ とうりゃんせ
ここはどこの細道じゃ
天神様の細道じゃ
ちょっと通してくだしゃんせ
御用のない者通しゃせぬ
この子の七つのお祝いに 御札を納めに参ります
行きはよいよい 帰りはこわい
こわいながらも とおりゃんせ とおりゃんせ
言わずと知れた童歌「とおりゃんせ」の歌詞ですが、この歌の発祥の地とされているのが、川越城本丸御殿の道向かいにある三芳野神社です。(小田原の山角天神社の説もありますが)この神社は、歌詞にもあるとおり、学問の神様「天神様」こと菅原道真を祀った「天満宮」、「天神社」なのです。
「とおりゃんせ」は、一説に神隠しを唄ったといわれている「かごめかごめ」と並んで、歌詞の内容が怖い童歌といわれることがありますが、かつて三芳野神社は川越城の一角にあったため、参拝者に対して監視の目が光っていたそうです。当時の情勢を考えれば納得ですね。
三芳野神社ですが、本殿が全面改修中でした(笑)
さて、気を取り直してやって来たのは川越大師こと天台宗・喜多院です。喜多院の開山は、平安時代初期にまで遡り慈覚大師円仁の開山とのことです。鎌倉、室町と2度の兵火により焼失しましたが、再建の後、徳川家が関東に転封されると比叡山から南光坊・天海僧正が招かれて当山に住寺すると、関東の寺院の総本山に指定されて大いに寺勢を誇ることになります。
寛永年間の川越大火によって全ての伽藍、堂宇を焼失することになりましたが、徳川将軍家の信任厚い天海僧正縁の寺ということもあって、速やかな復興が行われました。喜多院の本堂に連なる客殿、書院は、この際に江戸城内の御殿の一部が移築されたものだそうです。客殿には、徳川三代将軍家光誕生の間、春日局化粧の間などが今に伝えられています。私は家光がこの地で誕生したものと思い込んでいましたが、前述の移築によるものだということを初めて知りました。
さて、市内散策はやや不完全燃焼でしたので、ランチはうなぎを食べることにしました。読んで字のごとく、新河岸川、入間川、荒川に囲まれた川越は知る人ぞ知るうなぎ料理が名物です。うなぎが大好物のかみはうな重を食べて元気百倍!それに対してうなぎがやや苦手な私は、かみの前では蕎麦をすすって精進です。
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