歴史

2018年6月18日 (月)

富士川の戦い異聞

 時は平安末期の源平争乱の折、平治の乱で破れ伊豆に配流になっていた源頼朝は、治承4年(1180年)8月に以仁王の平家追討の院宣を受けて挙兵し、伊豆目代山木兼隆を討ちます。その後、有力な支援者である三浦氏と合流するため東に向かうものの、石橋山で平家方の大庭景親の軍に遮られ、合戦に及ぶも大敗を喫してしまいます。破れた頼朝は、落武者狩りから身を隠しつつ山中を彷徨い、その後、真鶴半島から海上を経て房総半島まで逃れました。

 その後、頼朝はかつて源頼義、義家や父義朝が拠点とした鎌倉を拠点と定め、相模の三浦党や中村党の他、千葉や上総、安西など房総方面の勢力の助けによって兵を進めます。すると、当初平家方だった武蔵の河越、畠山、江戸らも手のひらを返して参陣したため、石橋山の敗戦から1ヶ月後の10月6日には、晴れて鎌倉入りを果たします。

 一方、頼朝の挙兵の報は、数日後9月初めには福原の平清盛の耳に達することとなりました。清盛の対応は迅速で、すぐに孫の平維盛を総大将にした頼朝討伐の軍勢の派遣を決定します。ところが、出陣の日の縁起をめぐって、平家幹部の間で意見の対立が生じたため、京を出陣したのは9月も末になっていました。初期消火が必要な時に約1ヶ月もの時間をロスすることになったわけです。この間、頼朝と同時期に挙兵した甲斐源氏武田信義が、兵を南下させて駿河に侵攻し、10月14日には駿河の目代橘遠茂を討ったため、富士川以東は源氏の勢力となっていました。

 平維盛率いる頼朝追討軍7万は、10月18日に富士川西岸に布陣します。一見、7万の兵力は大したものですが、はるばる西国から東下してきた平家直営軍と途中で徴兵された兵たちの士気は低く、更に折からの飢饉の影響で兵糧が不足する有様でした。これに対して、富士山麓に集結した源氏軍は、頼朝と甲斐源氏軍を合わせると20万を号し、盛んに平家軍を挑発するなど意気盛んでしたので、平家方の士気はさらに低下していきました。夜、対岸はおろか周囲の山々にまで灯った源氏軍の松明を見て動揺した平家軍からは、数千人規模の逃亡者が出たといわれています。

 10月20日、両軍は富士川を挟んで対陣します。その夜、平家方の気勢を削ぐため、甲斐源氏武田信義が密かに富士川を渡って平家の陣に夜襲を試みます。ところが、これに驚いた数百、数千の水鳥が一斉に飛び立ったため、寝静まっていた平家の軍勢は「すわ、源氏の大軍が夜襲をかけてきた!」と大混乱に陥って、戦うことなく西へ壊走していったということです。水鳥の話はかなりの誇張があると思いますが、初めから勝負にならないと思った平維盛ら主将たちは、戦わずして撤退していったということでしょう。

 有名な源平、富士川の戦いの概略を書いてみましたが、富士宮からR469で一山越えたところに稲子という山間の集落があります。稲子温泉ユー・トリオという温泉がある他は、採石場と山の斜面に棚田があるだけののんびりとした風景です。

Dsc05163 棚田の一角に・・・

 のどかな棚田の風景の中にポツンと立つ石塔が目に入りました。石塔を動かすこともなく、水田のど真ん中にある石塔は、なんともいわくありげではないですか。

Dsc05165_2 何やら石塔が!?

 この石塔を解説した立札を見てみると、何と平維盛の墓と伝えられているものだそうです。平家滅亡後も源氏の目を逃れた維盛がこの地に隠世して天寿を全うしたと述べられています。

Dsc05167 伝 平維盛の墓

 ちょ、ちょっと待った!平維盛といえば、確かに頼朝追討軍の総大将としてこの富士川流域まで来ていますが、この地で戦死したわけでなく、富士川の戦いから4年後、源氏の攻勢により西へと落ち行く平家一門中から密かに抜け出して、平家縁の紀州の海に身を投げたという悲劇的な最後が定説となっていますよ。

 でも調べてみると、定説の他に平維盛の墓と伝えられているものは、この稲子の他にも奈良の十津川郷、伊勢津にも伝えられていて、さらに四国に渡って隠世したとか、何と琉球に渡って第2の人生を送ったという伝説まであるそうです。

 美形が多かったといわれる平家の公達の中でも、平維盛は群を抜いていて、光源氏や桜の花に例えられるほどのイケメンだったようです。そんな維盛がどこかで生きて延びていて欲しいという人々の願いが、各地に維盛生存説を残したのでしょうね。

2015年1月26日 (月)

首塚で蕎麦はいかが?

 秦野市東田原地区。丹沢から延びる丘陵地帯には田畑が広がって、何とものんびりとした里山風景です。この田畑の一角にあるのが、鎌倉幕府三代将軍源実朝公の首塚といわれる五輪塔です。

Dsc09572 実朝公首塚

 源実朝は頼朝の次男(頼朝と政子間。実は三男)で、1203年に兄の二代将軍頼家が出家し北条氏の手により伊豆修善寺に幽閉されると、三代将軍に擁立されました。将軍になったとはいえ、若い将軍をさしおいて、行政や司法は北条氏を中心とした有力御家人によって行われたため、実朝は興味は政治を離れて京文化に傾倒していきました。特に和歌の才能が特出で、新古今和歌集の選者藤原定家と親交を持ち、自らも金槐和歌集を編集したのは有名です。小倉百人一首には、右大臣実朝の詠んだ「世の中は つねにもがもな なぎさごく 天の小舟の 綱手かなしも」がエントリーしています。

 京文化に傾倒していく実朝。鎌倉幕府では完全にアウェイ状態です。これに目をつけたのが幕府から政権を奪還しようとしていた後鳥羽上皇です。実朝に対して文化面の援助をすると共に、高い官位に任官させて朝廷に取り込もうとしたようです。毎年のように昇任した実朝は、1218年には右大臣に任官しました。

 しかし、その翌年1月27日。右大臣任官を鶴岡八幡宮に参賀したところ、兄頼家の子で鶴岡八幡宮の別当であった公暁に暗殺されてしまいました。(ちょうど没後796年)公暁は修善寺で暗殺された父頼家の敵と信じていたようですが、それを彼に言い含めたのは北条義時あるいは三浦義村ともいわれています。実朝暗殺の真犯人というのは、小説やTV番組など歴史研究の好材料になってきましたが、朝廷になびいていった自らの首領、将軍実朝を暗殺することで、鎌倉武士たちは朝廷の介入を防ぎ断固とした態度を示したということでしょう。

 さて、実朝を殺害した公暁は実朝の首をもって逃亡しますが、間もなく謀叛人として殺害されてしまいます。しかし、実朝の首は行方不明になり、胴体が鎌倉寿福寺に埋葬されました。(胴塚)その後、三浦義村の命で御印の探索に当たっていた三浦武村の住人武常晴によって実朝の首が発見されましたが、祟りを恐れる御家人衆の意向によって鎌倉には戻されず、武常晴は親交のあった波多野氏を頼ってこの地に埋葬し、実朝の菩提を弔ったといわれています。

Dsc09570 豊富な湧水。そば粉は水車でひかれます。

 さて、実朝公の首塚に隣接するふるさと伝承館には、地場産の野菜や惣菜などを販売する直売所のほか、手打ちそば処東雲があります。地場産のそば粉と豊富な湧水で作られたそばはお薦めですよ。

Dsc09575_2 腹へったぁ~そば食いてぇ~

2015年1月22日 (木)

牧場のロバが語る三増峠の戦い

 服部牧場では、馬や羊の他にもいろんな動物が飼育されていますが、その中でロバが数頭います。その中の1頭が囲いの端っこからじっとこちらを窺っています。この囲いの中には多くの羊や山羊、なぜかシマウマまでが同居しているのですが、ロバの周囲には1頭も近寄ってきません。何やら家畜らしからぬただならぬ殺気が漂っています。

Dsc09514 諸行無常の気配あり

 ロバの背後には愛川町と相模原市を隔てる三増の山が見えていますが、この山は三増峠の戦いのあった古戦場として戦国ファンには有名な場所です。今でも戦場となった上三増地区には、信玄道とか旗立松、浅利明神、首塚、胴塚などの旧跡が点在しています。

 1568年、甲斐の武田信玄は、駿河の今川氏、相模の北条氏との三国同盟を破棄して、駿河の今川氏真を攻めて遠江に追います。北条氏康は今川氏を助ける一方で、武田の仇敵である越後の上杉謙信と同盟を結んで武田への包囲網を築きました。

 翌1569年に甲斐の武田信玄は2万の兵力で北条領に侵入し、10月には小田原城下に襲来しました。それ以前に上杉謙信が10万の兵力で攻めても陥すことができなかった小田原城ですから、武田軍も陥すことなく相模川沿いに甲斐に引き上げていきました。信玄としては、小田原城を本気で攻めるつもりはなく、反武田包囲網の盟主北条氏の根拠地を攻めて武威を示すことが目的であったといわれています。

 さて、北条氏康も引き上げる武田軍をみすみす見送るほどお人好しではありません。氏康の子、北条氏照、氏邦が率いる武蔵方面軍と呼応して、武田軍を挟み撃ちにしようしました。北条氏の武蔵方面軍が2万の兵力で三増峠で待ち構えて、小田原から北条氏政が2万の兵力で追撃するという作戦です。挟み撃ちになれば武田軍は危機的な状況ですが、戦巧者の信玄がみすみす罠にかかるはずがありません。

 三増峠に布陣して武田軍を待ち構えるはずの北条軍が、どういう訳か地の利を捨てて峠から下ってしまったのです。信玄お得意の計略があったのかもしれません。その隙をついて武田軍は三増峠に登って、攻守逆転してしまいました。武名名高い北条氏照、氏邦、綱成ら北条の若武者らも信玄にとっては子供をあしらう程度のことだったのでしょう。

 10月8日、小田原からの追撃軍の到着を待たずして戦端が開かれました。緒戦は武田軍の布陣が整わないところに北条軍が激しい攻勢をしたため大乱戦となり、武田軍は二十四将の一人、浅利信種が戦死するなど大きな打撃を受けます。しかし、信玄は重臣山県昌景に命じて、別働隊5千を密かに北条軍の側面に回り込ませていたのです。不意を突かれた北条軍は、小田原からの追撃軍を待たずして崩れてしまい、武田軍は勝鬨を上げて甲斐に引き上げたそうです。ちなみに北条氏政率いる小田原の追撃軍は、この時点で厚木市荻野まで来ていましたので、信玄にとっては当に間一髪という戦いでした。

 天然児と憩うのどかな牧場周辺で、かの武田信玄や武田二十四将、北条一門が干戈を交えたことをロバは気で語っているようでした。

2013年1月12日 (土)

数奇な人生の宮さんがいたものだ。

 久しぶりに歴史のお話。宮城の北、江戸城北の丸公園の片隅に騎乗の軍人さんの銅像があります。千鳥ヶ淵から竹橋方面に歩くときにいつも気になっていたのですが、先日ちょっと立ち寄ってどなたか確認してみますと、北白川宮能久親王さん・・・「あー!」と驚き。それもそのはず、昨年吉村昭の「彰義隊」を読んだばかりだったからです。この作品には、江戸から明治への戊辰戦争のときに、彰義隊に担がれて賊軍となった北白川宮の数奇な運命が描かれています。

 親王ですから皇族ということなのですが、伏見宮家の第9王子ということで庶子中の庶子。皇族庶子の人生らしく、江戸幕府最後の年(慶応3年)に徳川将軍家の菩提寺である上野の東叡山寛永寺の管主、同時に日光輪王寺の門跡となって、「輪王寺宮」と称されてました。将軍から庶民まで慕われた人格の持ち主だったそうです。

 しかし、激動の時は流れ戊辰戦争に突入すると、宮は幕府の依頼で将軍徳川慶喜の助命と江戸攻撃中止の嘆願をするため駿府(静岡)に赴き、征東軍の大総督有栖川宮熾仁親王と会談します。しかし、嘆願は一蹴されて、上野に戻ることになりました。結局、将軍の助命と江戸無血開城は歴史的に有名な勝海舟・西郷隆盛の会談で成立することになりましたが、幕臣の強硬派彰義隊が輪王寺宮を旗頭にして上野に籠り上野戦争が勃発。

 その後、彰義隊は脆くも大村益次郎率いる官軍に撃破され、寛永寺は焼失してしまいますが、上野陥落時に官軍に恭順すると思われた宮は東北に逃れ、何と還俗して奥羽越列藩同盟の盟主となってしまうのです。宮の心境や如何に?吉村昭の「彰義隊」では有栖川宮熾仁親王以下の官軍の宮に対するぞんざいな扱いに対して、幕臣、江戸庶民への恩顧心が描かれていました。これまた、盟主の仙台藩が官軍に降伏すると、宮は京都に送られて蟄居の身となってしまいます。

 明治2年に宮は蟄居を解かれて、伏見宮家、更に北白川家の相続を許されて、能久の名を贈られます。翌年、プロイセン(ドイツ)に留学し軍人としての道が開かれますが、プロシア貴族の未亡人と恋仲となり政府首脳を驚かせることもありました。明治10年に帰国すると陸軍の中に身を投じて中将まで昇進し、また日独交流事業にも尽力しました。

 明治28年、日清戦争の勝利で清国から割譲された台湾を平定するため、近衛師団長として台湾派遣軍の指揮を執りますが、平定を目前にしてマラリアにかかって48歳で陣没されました。宮家の庶子として江戸に送られ、その後賊軍として流浪の身となって、最後は勅命に従い志半ばで異国の地に没した宮を、人々は日本武尊に例えて哀れむと同時に、神として崇拝しました。

1301130217 北の丸公園で勇ましい宮の姿に会えます。

 ♪太平洋の空遠く 輝く南十字星 黒潮しぶく椰子の島・・・の歌いだしは、大東亜戦争開戦直後、マッカーサー元帥をフィリピンから駆逐し、敗戦後マニラ軍事法廷で処刑された本間雅晴中将が作詞した「台湾軍の歌」です。この三番目の歌詞が、台湾平定で陣没した宮さんを唄っていますのでご紹介します。♪歴史は薫る五十年 島の鎮めと畏(かしこ)くも 神去りましし大宮の 名残を受けて蓬莱に 勲を立てし南(みんなみ)の 護りは我ら台湾軍 嗚呼厳として台湾軍

2012年7月12日 (木)

油壺ってこんなところ

 京急油壺マリンパークでおなじみ、「油壺」という変わった地名。三浦半島先端部の西に延びる小網代の半島に切り込んだ湾は、波風の影響なく、油を流したような静かな海面であることから名付けられたという話が一般的なのですが、実は戦国時代にこの場で行われた壮絶な籠城戦が由来でもあります。

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 戦国時代の先駆者となったのが、おなじみ小田原の北条早雲こと、伊勢宗瑞。応仁の乱で荒廃した京から流れて、駿河今川氏の軍師となり、足利公方から伊豆を切り取り、更に箱根を越えて関東管領上杉氏の家臣大森氏の小田原城を奪います。後に関東一円に勢力を拡大させる北条氏の第一歩ですが、早雲一代では、相模国と武蔵の一部を切り取ったに過ぎません。(参照http://yama-umi.cocolog-nifty.com/blog/2011/02/post-92ed.html

 1495年に小田原城を奪った後、早雲が死去する1519年までの25年間は、電撃的なデビューとは対照的な時間です。遅咲きの彼が余生の貴重な時間をつぎ込んで倒さねばならなかった相手が、相模最大の勢力三浦氏でした。この三浦氏、坂東八平氏の一族で、頼朝の開幕を助けて北条氏(前北条)のライバルとなるも、謀略に敗れて宝治合戦で滅亡し、一時歴史の舞台から消えていました。

 その後、支流が執権北条氏、その後の関東管領と結びついて、戦国大名として勢力を取り戻していました。この三浦氏に関東管領上杉氏から養子入りし、養父を殺害して三浦氏を乗っ取ったのが道寸義同(よしあつ)です。父は扇谷上杉氏。母は早雲に小田原を奪われた大森氏ですから、早雲の宿敵ともいうべき血統なのです。早々に嫡子義意に家督を譲り、三浦の新井城を守らせた道寸は、相模中央部平塚市岡崎城に進出して、小田原の早雲に抗します。

 後に戦力を蓄えた早雲に岡崎城を攻められ三浦半島に退いた道寸は、半島先端部の居城新井城に殻に籠ったサザエのように3年間籠城し、早雲に抵抗しましたが、救援の上杉軍は早雲に返り討ちにされ、対岸の同盟者里見氏を頼ることもなく、1516年に矢尽き刀こぼれてついに自刃。嫡男荒次郎義意も敵中に切り込んで戦死し、三浦氏は再び血統が違う北条氏によって滅ぼされてしまいました。この3年に及ぶ激戦で小網代の湾は血潮に染まり、生き残った三浦一族は湾に身を投じたため、人の血や脂でよどんだ湾を住民は油壺と呼んだそうです。

 実を申しますと、この山笑も三浦党の末孫ですから、早速天然児とともに道寸を救援に参じた次第。マリンパークの駐車場から道寸の姿を求めて海岸線に下りようとしたところ、急坂に天然児のブレーキがかからなくなって暴走!樹林に消えた天然児を追っていくと、正面から転倒して呼吸困難な状態に(汗)助け起こしたところが、何と三浦道寸の墓前だったのが皮肉なことです。

P1040743 間にあわなかったかー! P1040746 天然児逆落としの坂

道寸辞世の句

「討つものも 討たるるものも 土器(かわらけ)よ くだけて後は もとのつちくれ」

2011年12月22日 (木)

湯の花トンネルの悲劇

 高尾山~小仏ハイキングの帰路、裏高尾の集落を歩いているときに、気になる看板を発見した。「いのはな慰霊の碑入り口」とある。看板に導かれて畑の中の坂道を登っていくと、中央線の踏み切りがある。その踏み切りの左手にトンネルが見えている。逆に踏み切り右手の畑の中に石碑が建っているのが見られたが、天然児が踏み切りに釘付けとなってしまったので近づけなかった。

P1010723 いのはな慰霊の碑とは?

 後日調べてみると、終戦直前の昭和20年8月5日正午過ぎ、浅川駅(高尾駅)を出発した新宿発長野行きの列車が当地に差し掛かったとき、にわかに高尾山上空から複数の米軍P-51戦闘機が来襲し、機銃掃射やロケット弾攻撃を反復して行った。列車は湯の花(いのはな)トンネルに入って停車したが、電気機関車と8両編成の客車のうち、トンネルに入ったのは機関車と前2両の客車のみであったために、後部の車両が格好の目標となってしまった。また、3日前に大規模な八王子空襲があり、中央本線は久しぶりの復旧だったため、車内は立つ余地もなく、デッキや窓に身を乗り出す乗客もあったほど混雑しており、犠牲者は50余名とも65名ともいわれ、負傷者も数百人にのぼる大惨事となった。これは我が国が受けた列車攻撃では、最大の被害と記録されている。

 戦後、遺族や土地の人たちが、この非人道的な戦争犯罪の記録を風化させないと共に、犠牲となった人たちの霊を弔うために慰霊碑を建立して、毎年8月5日には慰霊祭が行われているとのことだ。そんな悲劇の舞台を今日も中央本線の電車が通過して、湯の花トンネルに入っていくと、天然児は大興奮ではしゃいでいた。

P1010724 右端の生垣の中に慰霊碑がありました。(後方は中央道)

2011年12月10日 (土)

奇襲は日本のお家芸

 「トラ・トラ・トラ ワレ奇襲ニ成功セリ」真珠湾奇襲攻撃成功の暗号電文は、大東亜戦争開戦劈頭の日本軍の大勝利を象徴するものです。そもそも「奇襲」とは、敵の予期せぬ時期、方向、速度で攻撃をかけ、敵の混乱に乗じて、あるいは対応行動に入る前に撃破してしまうハイレベルな速攻性をもった戦術といえます。この戦術は歴史上、しばしば小勢力が大勢力を撃破する場面で用いられたことから、小兵をもって大兵を打ち倒す巧妙さを好む日本人に奇襲はもてはやされ、明治以降の軍隊教育においても奇襲攻撃を重視する傾向がありました。

 日本戦史において、奇襲戦術は武家の登場以来しばしば用いられ、古くは源平合戦において、源九郎義経による一ノ谷鵯越や屋島御所襲撃に見られましたが、この時代は敵味方が名乗りを上げて正面決戦をすることが常道で、敵の裏をかく一種の騙し討ち的な奇襲は、夜討ち朝駆けと共に武士の道にもとる卑怯な戦術とされました。しかし、後世の人々は義経の戦巧者振りと悲劇的な結末に同情し、判官贔屓に象徴されるように彼の戦術は華々しく語り継がれました。

 下って戦国時代、下克上の横行と足軽の登場によって、戦いの古式が崩壊すると、奇襲は弱小勢力の常套手段として当たり前の戦術となって、しばしば歴史を動かす場面が見られました。有名なものだけでも…

1546年 河越城を囲んだ山内・扇谷上杉氏、古河公方足利氏の大軍を北条氏康が撃破した河越夜戦→扇谷上杉氏滅亡。両上杉氏に代わって北条氏が関東の覇者に。

1555年 毛利元就が陶隆房の大軍を小さな宮島に誘き出して、海山から攻め立て撃破した厳島の戦い→陶隆房が戦死し、毛利元就が中国に勢力を伸張。

1560年 織田信長が領内に侵攻した今川軍の本陣を突いて、大将今川義元を討った桶狭間の戦い→今川家衰退し、信長は濃尾、畿内に勢力を伸張。

1570年 佐賀城を包囲した大友軍の本陣を籠城方の龍造寺軍が奇襲し、大将大友親貞を討った今山の戦い(実行部隊は鍋島直茂)→龍造寺氏拡大し、九州三国時代鼎立。

1584年 有馬晴信を討伐するため島原半島に侵攻した龍造寺隆信の大軍に対し、援軍の島津家久が山と海の隘路で撃破した沖田畷の戦い→龍造寺氏衰退し、島津氏伸張。

などが有名ですが、大体これらは天候、地形、敵情などの諸条件が揃い、さらに敵を凌駕する諜報力と隠密性が必須となり、一種賭け的な要素が強ので、勝者たちはその後奇襲を用いなかったといわれています。また、乾坤一擲の勝利は敵の中枢を消滅させるほどの完全勝利でないと、強弱の絶対的勢力差は変わらないので、後に来るであろう復讐戦で敗れる可能性が強くなるわけです。先述の戦国の例についても、敵に与えた打撃は何れも総大将が戦死するレベルの完全勝利でした。

 近代になり、日露戦争の開戦時においても、日本海軍はロシアとの国交断絶と同時に国際港であった朝鮮半島仁川港に停泊するロシア巡洋艦と砲艦を撃破し、旅順港深く侵入した水雷艇が魚雷攻撃を仕掛けて、在泊するロシア戦艦に損傷を与えました。日露戦争は結果として、小国日本が大国ロシアを陸海で破り勝利したため、発展途上であった日本人を自信過剰にし、敢闘精神と巧妙な作戦をもってすれば、大国といえども恐れるに足らずという誤った世界観が生じてしまったのです。その巧妙な作戦の中で、奇襲は第1のお約束のようなものでした。

 大東亜戦争開戦時の真珠湾攻撃やマレー上陸も、奇襲攻撃=宣戦布告という日本のお家芸だったわけです。

2011年12月 8日 (木)

ワレ奇襲ニ成功セリ

 今日は12月8日。今年は米太平洋艦隊への蜂の一刺しである真珠湾攻撃によって、大東亜戦争が開戦してから70年という節目の年であります。

見よ檣頭(マスト)に思い出の Z旗高く翻り 時こそ来たれ令一下 ああ十二月八日朝 星条旗まず破れたり 巨艦裂けたり沈みたり♪(大東亜戦争海軍の歌より)

 真珠湾攻撃は「奇襲攻撃」と表現され、アジアの貧国日本が大国アメリカを倒すための戦法としては、先制攻撃によって太平洋艦隊の主力を撃滅し戦意を喪失させることこそ、この上ないものにも思われますが、国際法が整いつつあった20世紀の戦争としては余りに乱暴で、アメリカの国力を蔑ろにしたお粗末な戦術と言わざるを得ません。実際、真珠湾攻撃では米太平洋艦隊の主力戦艦群を撃沈破し、多数の航空機を地上撃破し、大戦果は華々しく宣伝されて、国民の士気を高揚させ、12月8日は「大詔奉戴日」という戦勝記念日になりました。その反面、アメリカの国民感情は戦意喪失どころか、奇襲という騙し討ちに激高し、「真珠湾(の屈辱)を忘れるな!」のスローガンは対日戦反撃の原動力になったのです。

 そもそも、日本の戦争指導者たちが考えていた大東亜戦争の初期完遂目標は、日露戦争同様に、敵国米英の国家を消滅させることではなく、中部太平洋方面において戦線を構築し、局地戦に次々と勝利を得てた後、早期に優位な状況下で和平交渉を進めることにありました。真珠湾攻撃を立案した山本五十六連合艦隊司令長官の「海軍は緒戦半年、1年は思う存分暴れてみせる。しかし、2年、3年となると保障できない。」の言葉はそれを象徴するものです。もっとも、山本長官のこの発言は、対米戦争を危ぶむ本心から出たものなのですが、「やるとなったらとことんやる!」という彼の軍人としての気概も窺えるものではないでしょうか。

 しかし、戦争は指導者たちの思惑を超えて泥沼化し、真珠湾攻撃で時代の主力となりつつあった航空母艦を討ち漏らしてしまったことが、珊瑚海、ミッドウェー、ソロモンの諸海戦で手痛いしっぺ返しとなっていきます。山本GF長官の言葉のとおり、半年で日本の太平洋域での戦略は頓挫し、国力の脆弱な日本はソロモン諸島、ニューギニア、フィリピンの消耗戦でたちまち乾上って、悲惨な末路を辿ることとなります。

 今月23日に映画「山本五十六」が全国で封切られます。また、NHKをはじめ、日米開戦に関するTV番組の特集も多い時期です。これらを参考に、70年前に日本が勝算の低い戦争に何故突入したのか、日本人として考えてみる機会であると思います。

2011年3月 3日 (木)

猫間中納言

 さて、前回に続き猫にまつわる話を続けてみましょう。

 平家物語に猫間中納言こと藤原光隆という人が登場します。中納言は官位ですが、なぜ「猫間」と呼ばれたのか?この人は京都洛中、後世に新撰組の屯所が置かれた壬生という場所に住んでいたそうですが、壬生という地名が猫間と呼ばれた時期があったそうです。彼は摂関藤原家の本流ではないにしろ、平安時代末期に「天下一の大天狗」と呼ばれた策謀家後白河院(法皇)の近親として活躍した人です。

 ときは1183年初夏、北陸道で平家軍を打ち破った木曾(源)義仲は、勢いに乗って平家を都落ちさせて入京を果たします。しかし、義仲に率いられた信州、北陸地方の田舎武士たちは、京都の華やかさや豊かさに浮かれて略奪や乱暴狼藉の限りを尽くし、都人を恐怖に陥れました。見かねた後白河法皇が義仲のもとへ交渉役として派遣したのが、猫間中納言こと藤原光隆でした。

 さて、両者対面の場面は、義仲の礼儀知らずな田舎武者の一面と共にユーモア溢れる人物像が描かれています。

 家臣から猫間中納言の来訪を知らされた義仲はangry「なに、猫が人に会おうというのか?」と大笑い。のっけから飛ばします。家臣が慌ててcoldsweats02「いえ、猫ではなく猫間中納言という公卿様です!」と取り繕うと、義仲angry「猫殿のせっかくのおこしであるから飯をお出ししろ。猫は生魚を好むゆえ、生魚ではないが生平茸があるのでそれをお出ししろ。」と饗応接待を命じます。山盛り飯、菜物、平茸汁の膳が出されると、猫間中納言は京都の貴人ですから、配膳の見た目の悪さにcat「今は腹が満たされておりますゆえ。」と辞退します。そこは頓着しない義仲angry「これは木曾田舎流の精進料理ですから遠慮せずに。」としつこく勧めるので、catさすがに悪く思ったのか、中納言は箸をつける仕草をします。それに気付いた義仲は爆笑してangry「猫殿は小食でいらっしゃる。猫は猫らしく食い散らかすものじゃ。さあ食った!食った!」とはやし立てたので、cat猫間中納言はすっかり交渉をあきらめて逃げ帰ってしまったということです。

 平家物語で語られる源平合戦の血生臭い時代にあって、木曾義仲の田舎者振りと京の高潔な作法を食ったようなユーモアが面白いですね。

 しかしこの後、木曾義仲は後白河院を恐喝するような形で征夷大将軍を拝命し、「旭将軍」と世に知られましたが、そこは「天下一の大天狗」後白河院、やられっぱなしではありません。院は水面下で義仲の排除を画策し、鎌倉の源頼朝に義仲追討の院宣を下したので、頼朝は義仲討伐のため弟範頼、義経を大将とした大軍を京都に派遣します。義仲入京の翌年1184年1月宇治川で両軍は激突し、衆寡敵せず義仲軍は敗退。敗走した義仲主従は近江国(滋賀県)粟津で捕捉撃滅され、義仲は戦死します。享年31歳の若さでした。

 最後に蛇足です。猫間中納言こと、藤原光隆の子供に「小倉百人一首」第98番の歌人従二位家隆がいます。季節外れの和歌で今回は終了。

「風そよぐ ならの小川の 夕暮れは みそぎぞ夏の しるしなりける」

(楢の葉が風そよぐ夕暮れ、川でみそぎ(禊)をする光景はいまだ夏である証拠だ。)

2011年2月18日 (金)

駅前の銅像がいざなう歴史旅

 駅の改札をくぐると銅像が迎えてくれる場所は多いですよね。芸術的なもの、ご当地名物、ゆかりのある人物等々・・・有名どころ渋谷駅の忠犬ハチ公(ハチの出生の地である秋田県大館駅にもあるそうですよ。)や甲府駅の武田信玄(塩山駅も信玄公)から、最近は銀河鉄道999やゲゲゲの鬼太郎などアニメキャラクターが話題になっていますね。私は歴史上の人物や名場面の駅前銅像が好きなんですが、特にJR北陸本線はお気に入りが多いです。福井駅の柴田勝家、小松駅は勧進帳の「安宅関」、長浜駅は秀吉に茶を進上する石田三成、津幡と石動駅は源平倶利伽羅峠の戦いの「火牛の計」・・・

P1000069 津幡駅構内の火牛像

こういう火牛もいるんだね~http://kanazawa.keizai.biz/headline/1137/(金沢経済新聞)

 地元小田原駅には東西両口に銅像があります。東口の小便小僧は繁華街のある東口の利用頻度が多かったので、幼い頃からなじみ深かったのですが、西口にある北条早雲の銅像は駅裏となる西口をほとんど利用することがなかったので、存在を知ったのは最近になってからでした。

P1000305 昨日も登場した早雲公

 さて、その早雲公は勇ましく馬上で采配をふるう姿ですが、その脇に角に松明をつけた牛が3頭。ここにも「火牛」がデザインされております。しかし、先述の倶利伽羅峠の「火牛の計」とは少しニュアンスが異なります。倶利伽羅峠の戦いは源平の戦いのひとつで、信州から北陸道に進出した木曽(源)義仲が、京都から攻めてきた平家軍の陣中に荒れ狂う火牛を突入させて打ち破った戦いです。火牛そのものを兵器とした訳ですが、北条早雲の「火牛」は、彼が小田原城を関東管領上杉氏の家臣であった大森氏から奪い取ったときのエピソードに登場するものです。

 北条早雲は戦国時代の幕開けを象徴する人物として、あるいは下克上を象徴する人物として有名ですが、出生から前半生については不透明な点が多い人物です。浪人の身分から大名に成り上がったように思われがちですが、本名が伊勢新九郎長氏ということから、室町幕府執事伊勢氏の身内人で、姉(妹とも)北川殿が駿河守護今川義忠に嫁いだので、その縁で駿河(静岡県)に下向し、義忠が不慮の死を遂げた後は今川家の軍師として幼君氏親を補佐して活躍しました。駿東郡(静岡県東部)から伊豆を平定して、相模への進出を狙いますが、関東には関東管領上杉氏(山内、扇谷家)が勢力を誇り、相模には扇谷上杉氏家臣の太田道灌、大森氏頼、三浦時高などの強豪がいて手が出ません。

 早雲は悶々とした日々を送ったことでしょう。こんな夢を見ています。~1匹のねずみが現れて、2本の杉の大木に取り付き、かじり倒してしまいました。すると、そのねずみは虎に変化したのです。~早雲は子年だったので、ねずみに自分を重ね、2本の大杉は関東の大勢力扇谷、山内の両上杉家を想定し、いつかは上杉家を倒して関東を奪い取るという大望を抱いていたんですね。

 辛抱強く待っていると、チャンスが到来!1486年に彼のライバルともいえる太田道灌が伊勢原市糟屋の主人上杉定正の館に呼び出され殺害されました。この事件は太田道灌の天才的な能力を恐れた主人が行った愚行とされていますが、早雲がライバルである道灌を消すために謀反の噂を流したという説もあります。更に1494年は早雲にとって運命的な年となりました。扇谷上杉定正が戦の最中に落馬して死去。足柄岩原城に隠居しながら小田原城ににらみを効かせていた大森氏頼が病死。相模最大の勢力を誇る鎌倉以来の名門三浦時高が後継者争いで養子の道寸に殺害と、早雲にとってこの上ない事件が立て続けに起こったのです。

 そしてその時、1495年9月某日。

 小田原城主は大森氏頼の次男藤頼でした。大森氏頼・藤頼父子と早雲は扇谷上杉氏傘下の同僚として以前から交流がありましたが、父の氏頼は早雲の野心を見抜き心を許しませんでした。氏頼亡き後、子の藤頼がお人好しであることに目をつけた早雲は、大量の贈り物を藤頼にして彼を油断させていました。その日、早雲は伊豆の山で鹿狩りをしていたところ、鹿の群れが箱根山に逃げ込んでしまったので、勢子(獲物を追いたてる狩人)を越境させて欲しいと小田原の藤頼に依頼しました。すっかり早雲を信じ込んでいた藤頼は「早雲庵の手際の悪さよ。」と笑ってこれを許しました。それこそが早雲の思う壺、箱根山に入ったのは勢子ではなく早雲揮下の精鋭と千頭もの牛。早雲は夜になるのを待って、牛の角に松明をつけ、箱根山の麓である小田原に向けて牛を放ちました。真夜中に突如起こった松明の群れと牛のいななき、軍兵のときの声。小田原城中は何者による襲撃かも確認できず(早雲が今川の援兵を率いて襲撃してきたと考えるのが妥当か?)大混乱となり、大森藤頼は戦わずして城を棄てて平塚の真田城へと逃走してしまいました。早雲が用いた千頭もの火牛は木曽義仲が用いたような兵器ではなく、敵を欺く偽兵だったのです。

 こうして北条早雲こと伊勢早雲庵宗瑞は関東進出の第1歩を記したのです。この後、彼は残る生涯を相模の最大勢力である三浦道寸との戦いに費やし、1516年に三浦半島新井城に籠る三浦氏を滅ぼして相模を平定し、その3年後に死去しました。早雲から氏綱、氏康へと北条氏は扇谷・山内上杉氏と戦いながら関東に勢力を拡大し、3代目氏康のときには両上杉氏を滅ぼして、遂に早雲が夢見た2本の大杉を倒したのです。更に氏政、氏直の時代はほぼ関東全域を支配下に置き、小田原北条100年の栄華を今に伝えます。

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